由緒ある金玉山雙林寺で癒しのひととき。
雙林寺の特徴
金玉山雙林寺は、最澄開基の由緒ある天台宗のお寺です。
薬師如来様を御本尊にお祀りしています。
比叡山延暦寺を本山とする歴史深い寺院です。
大谷祖廟の万灯会の帰りに歓喜天様をお祀りされているのを偶々見つけ翌日参拝。歓喜天様をお祀りしている京のお寺は入口に石柱で大きく表示している割に、あまり推してない。尊格の性質上あまり大っぴらにできないのかな。野良猫?が入口で招き猫してモフらせてくれました。
天台宗 御本尊は薬師如来様 知恩院に行く途中に寄りました。御薬師さまの像がちょっとふっくらしているように感じました。優しさも感じ、良いご縁を頂きました🎵
比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺院開祖伝教大師の創建と言われています。江戸時代は東山三十六峰のひとつに雙林寺山として数えられるほどの大寺院でしたが、高台寺、東大谷祖廟の造営に寺領を献上し、明治時代に入ってからは、廃仏毀釈や円山公園の造営のためさらに多くの寺領を上地し、現在は僅かに本堂と飛地境内にある花月庵を残すだけとなっています。本堂に向かう右手には、小さいながらも手入れされたお庭があります。なんだか、ほっこりします。本尊は、伝教大師作と伝わる薬師如来坐像です。国の重要文化財に指定されています。高さは、85センチメートルですが、全体的に奈良の大仏にも似たどっしりとした印象を受ける坐像です。(2023/2)
京都市東山区鷲尾町にあるのが天台宗の金玉山雙林寺になります。院号は法華三昧無量寿院。寺号は正しくは沙羅双樹林寺という。本尊は薬師如来、大聖歓喜天になり、京都十二薬師霊場の第7番札所になります。延暦24年(805年)に桓武天皇の勅願で創建さてたお寺になります。鎌倉時代には塔頭が17院ある広大なお寺であったが戦乱や天災で衰退し、江戸時代に入ると慶長10年(1605年)には高台寺の造営にあたって寺地を献上、次いで承応2年(1653年)にも真宗大谷派の大谷祖廟の造営にあたって寺地を献上することとなり、その都度規模が縮小されていった。さらに1886年(明治19年)に円山公園の造成のために寺地が上地されてしまい、現在では本堂と飛地境内にある西行庵(西行堂)を残すのみとなっている。京都十二薬師霊場巡りや各種特別公開にて何度か訪問している。直近では、2023年10月に京都十二薬師霊場の10周年特別公開にて訪問した。ただ、何故か雙林寺を訪問するときは、雨降りの訪問だったり、いつも何の苦も無く行けたのに今回の訪問は何故か道を間違ったりと記憶に残ることが多いと思う。
金玉山雙林寺(そうりんじ)、天台宗のお寺です。今回は京都非公開文化財特別公開で訪問、恐らく御本尊の薬師如来坐像は縁日や特別公開のみの御開帳なのだろう。特別公開以外でも拝観は可能なようです。
21年4月2日に訪れました。「令和3年 春季京都非公開文化財 特別公開」で行ってきました。御本尊の薬師如来坐像が、愛嬌のある親しみやすいお姿をされていました。御朱印もたくさん種類がありました。
最澄開基と伝えられる由緒あるお寺。京都十二薬師霊場第七番札所でもある。「薬師如来さまと歓喜天さまをお祀りする京都東山にある天台宗寺院」と寺院Webサイトに記述されている。ちょっと気になったのが「お祀りする」という表現。「祀る」のは神や霊ではないか?大辞林第三版とかにもそう記されている。本職が間違えるとも思えないので、いまは仏教でも祀るというのであろうか。この寺院、入り口が何やら怪しい。墓石屋さんが運営しているかに見えてしまう。ご本尊は薬師如来。見仏的には少々物足りないかもしれない。「いわゆる観光寺院ではありませんので、きれいなお庭や墨蹟など観るものはありません」と寺院Webサイトにも記されている。
| 名前 |
雙林寺 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 9:00~16:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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令和四年 新緑の京都散策 5月29日雙林寺金玉山と号する天台宗の寺である。延暦年間(782~805)に尾張連定鑑(おわりのむらじじょうかん)が伝教大師最澄(さいちょう)を開基に招じて創建したのが当寺の起こりと伝える。その後、鳥羽天皇の皇女入寺などもあって栄え、広い境内と多くの塔頭子院(たっちゅうしいん)を有したが、中世になって衰微するに至った。応永年間(1394~1427)に国阿上人(こくあしょうにん)が再興し、時宗一派の本山となり、東山道場と称したが、応仁の乱後再び衰え、明治維新のとき天台宗に改まった。さらに、明治の中頃、円山公園が設置された際に多くの寺地を失い、現在は本堂の一宇にその名残をとどめるのみである。本堂に安置する木造薬師如来坐像(重要文化財)は最澄御作と伝えられ、平安時代の翻波式衣文(えもん)がよく表現されている。この地には、かつて、西行(さいぎょう)、平康頼(たいらのやすより)、頓阿(とんあ)などが庵住したと伝え、本堂の南西地には今も花月庵(西行堂)が建つ。また、豊臣秀吉もここで花見の宴を催したといわれる。京都十二薬師霊場会第七番札所です(^^)