河井継之助の聖地を訪ねて。
河井継之助記念館の特徴
河井継之助の終焉の地として歴史を感じる記念館です。
懐かしい思い出を抱えた訪問者が多い場所です。
周囲の景観が美しく、紅葉の時期は特におすすめです。
この内容で350円の入館料は良心的!ガイドさんまでいて充実!継之助の全てが学べます。みんな行って欲しい!
受付けの女性の方が親切で色々教えていただけた事、楽しく観覧できましたありがとう御座います!また眼の前の只見川の景色も最高でした。駐車場心配していましたが10台ほど停められます大きさはマイクロバスまで大型車線路、どうろを渡り少し離れた駐車場になりやす。
個人を顕彰した記念館としては、非常に充実している。私は、この記念館を訪れる前に、司馬遼太郎著「峠」を再読して訪ねたが、分かりやすく丁寧な展示に、地元の人たちの思いが伝わってきた。更に、長岡藩と会津藩の深い絆を実感すると共に、継之助の終焉の家を、私費で移築した矢沢家の熱意に感動した。敢えて言えば、幕末の動乱期に、武装中立を貫こうと考えた継之助の、その思想の形成過程を紐解く展示があったら、より継之助の偉大さが理解できる気がする。一見の価値のある、素晴らしい記念館だった。なお、記念館から徒歩数分で継之助の墓がある。こちらも是非、訪れて欲しい。
河井継之助は藩の財政を建て直した敏腕の長岡藩家老です。戊辰戦争では初めは中立の立場だったが奥羽越列藩同盟を結成し西軍と戦った。結果敗北し只見へ逃れ記念館ある地が終焉の地となった。只見町ではこの地に記念館を建て様々な資料を展示しています。なかなかの出来映えで良かったです。
2024.6.28(土)仙台からツーリングで訪問。「峠」を観てからの訪問をお勧め。記念館から望む、只見川と只見の里山の絶景も見事。
会津塩沢駅から、駅から散歩で訪問。秘境駅の会津塩沢駅を降りる。記念館へ向けて案内看板が出ているので、迷わず行くことが出来る。行くまでの道が、また素晴らしい。景色を堪能しながら、徒歩10分ほどで到着。館内は、写真撮影も出来る。司馬遼太郎が眺めた場所で、『峠』を思い起こすと、感慨深い。記念館より、徒歩5分ほどで、河井継之助のお墓があるので、ぜひ訪れたい。
入館料350円で木曜休館日です。冬季間は休業しているようです。252線沿いに案内看板がありますが少し分かり辛いかなと。道路幅も狭いです。道路沿いに第一駐車場があり、記念館前に第二駐車場がありますが、週末でも第二駐車場に停めれました。長岡藩の藩士だったのに亡くなったのは只見町だったんですね。1973年に開館し、1993年に終焉の間を移築し新装開館、2008年に生まれた地の長岡市にも記念館がオープンしたことを機に展示内容がリニューアルしているそうです。戊辰戦争での出来事を映像で説明しているので、興味のある方はぜひご覧になって下さい。
河井継之助の終焉の地がここだったとは知りませんでした。観光案内のパンフレットで知って、ぜひ訪れようと思った。キレイな山河のいっかくにお墓がありました。その手前に河井継之助ミュージアムがあった。激動の時代に筋を通した男の生き様は尊敬いたします。それに比べて長州勢力の腹黒さはどうにかしなきゃと感じます。150年ほど前から日本の政治を牛耳っています。腐敗するのも当然だ。お墓のまわりに気がつけば、可憐なカタクリの花が群生していた。長岡藩、会津藩、米沢藩の律儀な人々によく似合う花です。
2023.10.3 (火) 、約30年前に訪問した懐かしい河井継之助記念館へ団体で訪問。職員の丁寧な説明を受け、長岡藩家老河井継之助がめざした非戦中立、豊かな民の生活を願いながらも戊辰戦争のひとつ北越戦争で戦わざるおえなかった経緯を改めて知りました。この戦で負傷しながら八十里越を経て只見で療養するなかで「商人になれ」と諭された藩士が後に銀行家・衆議院議員を経てアサヒビール・大阪ガス・阪神電鉄創業に貢献した外山脩造であったことも。彼の想いを語り継ぎ、今後の日本のためにも大切にしていきたいですね。初めての方はビデオを観ることをお勧めします。
| 名前 |
河井継之助記念館 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0241-82-2870 |
| 営業時間 |
[日月火水金土] 10:00~16:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
〒968-0411 福島県南会津郡只見町塩沢上ノ台850−5 |
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
戊辰の役に関心がある方なら一度は訪問したほうがよい場所です。河合継之助の生い立ちから最期までが分かりやすく展示されています。近現代日本の誕生には大きな犠牲(エネルギー)を要したことが分かります。東軍(幕軍)、西軍(新政府軍)、どちらにも理想と義があり、それがぶつかり、多くの有能な人々が散華していったことに思いをはせることが出来る場所です。原敬の「戊辰の役は政見の異同のみ」という言葉の重みがよくわかる場所でした。