整備された歴史の舞台、首洗池!
首洗池の特徴
石川県に残る源平史跡としての魅力があります。
池の周りには感情豊かな像が点在しています。
整備された景観が訪れる人を心地良くさせます。
桜がきれいで立ち寄りました「斎藤別当実盛の首洗池」で知られる場所整備され立ち寄りやすくなり、3Dで蘇る斎藤別当実盛と記念撮影する事もできます。
タクシー🚕に乗って来ている人もいました。運転手さんがガイドしていました。
小さな駐車場と、池と東屋、看板と銅像があります。連休中ですが訪れる人はまばらであまり手入れされてない感じがしました。
石川県に残る源平史跡の一つ。小ぢんまりとした公園ですが綺麗に整備されてます。展望台からは、柴山潟と白山の眺望が楽しめます。尼御前史跡と合わせて訪れていただきたい場所です。駐車場もあります。
池の周りの像が泣いているように見えてもらい泣きしそうになりました😭哀しい歴史を学びました。駐車場は6台。トイレもあります。季節、季節の花も楽しめました。1183(寿永2)年の篠原の合戦で討ち果てた、老武者斎藤別当実盛の首を洗ったといわれる池です。実盛は木曽義仲の幼少時の恩人であり、白髪を黒く染めて戦いに赴いていたとされ、あらわになった白髪を見て義仲は号泣したと伝えられています。芭蕉の句碑「むざんやな甲の下のきりぎりす」が立てられています。
木曾義仲 斎藤別当実盛にまつわる場所で片山津ICから車で約5分くらい県道39号線沿いにあります。駐車場(無料)は6台ほどで満車となります。訪れた時は1台分空いていて止められました💦 篠原古戦場跡の石柱があり小高い山の公園には物見櫓と祠(令和3年3月建立)がたっていました。老朽化したお社は取り壊したようです。芭蕉の句碑「むざんやな兜の下のきりぎりす」が立てられています。
最高にかっいー!爺ちゃんの死にざまを感じられる場所です。時代は、源平合戦の最中です。爺ちゃんの名前は、斎藤別当実盛。実盛は平家物語において「実盛最期」と一章をあげて描かれています。実盛は以前は源氏に使えていましたが、最期を迎えるときは平家側にいました。歳も73歳になり、故郷(隣の福井県)の近くで最期を迎えようとして、戦の準備をしました。白い髪では恥になると思い黒く染め、大勝より大勝しか着用が許されない錦(赤)の直垂(鎧の下に着用するもの)を来て、戦の最期には一騎奮戦して、あえて名乗らず手塚光盛に討たれました。首実検の際に、あえて名乗らなかった不思議な大勝の首を源氏の大勝 木曽義仲に見せました。それを聞いていた樋口兼光に見せたところ、この首に見覚えが有るが、実盛ならば70歳を超えている。と言ったので、木曽義仲がこの首洗い池で首を洗わせたところ、白髪の実盛の首が現れました。実盛は、木曽義仲が2歳頃の命の恩人だったので、その場で人目もはばからず泣いたと伝えられております。そして、その話を聞いた源氏達も皆泣いたといいます。なので、池の近くの銅像は首を抱いて泣いている木曽義仲が描かれています。また、木曽義仲は遺体を実盛塚に埋葬して(今でも立派に美しくされています)、鎧兜を多太神社に自分の鏑矢を添えて奉納しています。この神社は少しはなれていますが、式内社なので格式の高い神社に奉納したことがうかがえます。また、この話しが元になって、実盛の亡霊が池の淵に出ると有名になって世阿弥により、能楽「実盛」、歌舞伎にも演じられてますし、亡霊をおさめたという宗派の僧侶の宗派では、1番偉い人が代替りする時は今でも訪れる慣わしになっているといいます。また、奥の細道で松尾芭蕉には、「むざんやな 甲のしたの きりぎりす」と歌われています。
綺麗に整備されて気持ち良くなりました。東屋内に源平合戦物語が絵巻の様に書いてあり、初めてじっくり読みました。駐車場から丘に登る新名所「手塚山公園」と言っても広場ですが、階段もでき芝生も敷かれて椅子に座って柴山潟を望むのも心地よくなりました🤗今は桜満開🌸来月は花菖蒲が綺麗に咲きますよ😍
| 名前 |
首洗池 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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首洗池(くびあらいいけ)は、石川県加賀市柴山町にある小さな池である。寿永2年(1183)、源平合戦の篠原の戦いにおいて討たれた平家方の武将・斎藤別当実盛の首がここで洗われたという伝承により、この名で呼ばれるようになった。加賀市の文化財指定は受けていないが、周辺の「鏡の池」が市指定史跡となっており、伝承圏の中核を成している。この池に結びつく物語は、木曽義仲と実盛の関係に由来する。幼い頃の義仲は実盛に命を救われたことがあり、やがて寿永2年の篠原合戦で義仲軍は老武将実盛と対峙した。実盛は老いを侮られぬようにと髪と髭を黒く染めて奮戦し、ついには討ち取られる。首実検の際、樋口兼光が首を洗うと染料が落ちて白髪が現れ、討ち取られた人物が恩人実盛と判明したという。義仲はその場で涙を流したと伝えられる。この逸話は『平家物語』巻七「実盛最期」に記され、のち世阿弥の能『実盛』の題材ともなった。さらに応永21年(1414)の『満済准后日記』には、加賀篠原で実盛の霊が現れたとの記事が見える。首洗池のほとりには、義仲が首実検を行う場面を題材とした像が設置されている。銅像の構成については複数説があるが、現地の案内では義仲像を中心に伝承場面を再現しているとされる。また芭蕉が元禄2年(1689)にこの地を訪れ、「むざんやな甲の下のきりぎりす」と詠んだ句碑も建つ。句形には「無残やな」と「無残やあな」の異伝があり、兜の下から現れた虫を通じて戦場の無常を詠じている。実盛に関わる関連史跡としては、加賀市深田町の鏡の池がある。ここは出陣前に実盛が鏡を沈めたと伝えられる池で、昭和37年に市指定史跡となった。直径約12メートルとされるが、県観光資料では「約12平方メートル」との表記も見られ、数値の扱いには注意が必要である。池底からは平安末期の銅鏡が出土し、意匠には鶴と松が確認されている。池は年に一度清掃され、その際に古鏡が拝観に供される。また、篠原古戦場の一角には実盛塚と呼ばれる塚があり、彼の首級または遺骸を葬ったと伝えられる。周辺地名には「源平町」など当時を偲ばせる地名が残る。さらに小松市の多太神社には、実盛が着用したと伝わる甲冑(兜・大袖・臑当)が伝世し、現在は国の重要文化財に指定されている。これらは首洗池の伝承を物的に補強する文化財群である。一方で、民間伝承として「サネモリ虫」の話も伝わる。実盛の怨霊が害虫となり稲を食い荒らすとされ、加賀地方ではこれを鎮めるために虫送り行事が行われてきた。川北町の火祭りなどにその名が伝わり、民俗行事と結びついて今日まで語り継がれている。首洗池は、規模こそ小さいものの、伝承・文学・能楽・民俗に至る多層的な広がりを持つ場である。史実としての指定文化財には含まれないが、平家物語と義仲・実盛の逸話に直結する土地として、地域史を理解する上で欠かせない。周辺には鏡の池や実盛塚、多太神社の甲冑といった関連史跡が点在し、首洗池を訪れることで加賀における源平合戦の記憶を総合的にたどることができる。伝承の内容を「史実」として断定することはできないが、この池の存在が加賀の人々に歴史の物語を伝え続けてきたことは確かである。