荻窪の地名発祥、荻寺の慈雲院。
光明院の特徴
光明院は708年創建の真言宗豊山派の寺院です。
荻窪の地名の由来となった荻寺がここにあります。
敷地内に通り道を作り、地域の重要な場所となっています。
寺院の外の敷地にはトイレ内と思います。ご注意を。令和7年6月某日、朝の散策で訪問しました。なにやら出入り口の往来がとても多い。しかも、皆さん普通にカジュアルないでたちです。??でしたが、敷地に入って理解しました。東西をつなぐ連絡通路があったのですね。それでも静かで心の落ち着く空間です。以下、杉並区HPより引用です。慈雲山(じうんさん)光明院は、真言宗豊山派の寺院で、通称「荻寺」と呼ばれ、荻窪という地名もその名に由来するといわれています。当寺蔵の「縁起石碑」によれば、和銅元年(708年)、行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところ急に仏像が重くなり、荻の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。本尊の木造千手観音菩薩坐像(杉並区指定有形文化財)は南北朝期の作であり「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれました。昭和初年頃までは本尊の写し観音が地域を巡業する行事が行われ、信仰を集めたといわれています。また、境内から本尊と同時代に作られたとみられる五輪塔や、室町期の板碑などが出土しており、当寺の開創は南北朝期にさかのぼれるものと考えられます。今も寺の周辺に残る「四面堂」「堂前」の地名も、当寺の御堂に起源をもつといわれています。なお、嘉永3年(1850年)に再建された本堂は、現在の位置よりも西南側にありましたが、明治21年(1888年)、甲武鉄道(現中央線)建設のため、現在地に移されました。
光明院は真言宗豊山派のお寺で、山号は慈雲山、寺号は萩寺。和銅元年(708年)行基作の仏像を背負った遊行中の僧が、この地を通りかかったところを急に仏像が重くなり、萩の草堂を作って仏像を安置したのが開創と伝えています。本尊は千手観音坐像、通称「荻窪の観音様」の名で近在の人々に親しまれています。境内では「泣きべそ地蔵」という名前のお地蔵さんと出会うことができました。その由来は以下のようなものです。小張吉兵衛さんが建立された阿彌陀様、観音様、勢至菩薩の4体の大きな石仏をいいます。吉兵衛さんが両親と奥さんを相次いで亡くし、悲しみをまぎらすためにお地蔵様を建てました。建てた当時は普通のお顔でありましたが、だんだん悲しみの顔にかわり、ついに泣きべその顔になった。と伝えられています。
休日の午後に訪問しました。ご本尊は千手観音様です。由緒ある古いお寺で、荻窪の地名のもとにもなっているそうです。当日は参拝客は一人だけで、ゆっくりとお参りできました。
荻窪の地名の由来となる真言宗豊山派の寺院です。きれいに手入れされた境内で、ご朱印は本来書置きなのでしょうが、今日は直書で対応していただきました。
私の家の墓は、別院にあります。屋内で雨が降ってもいつでもお墓参りが出来る便利さでそこにお墓を設置しました。
荻寺とも呼ばれ、荻窪の由来ともなった場所とのこと。
光明院の周辺に残る「四面堂」の地名はこの寺の御堂に起源をもつと、寺院まえの説明書きにあるが、青梅街道・環8・日大二高通りが交わる「四面道」交差点の名前と関係があるのだろうか?
荻窪駅界隈を散策していて偶然発見。日曜日の午後は閉まっていて入れませんでした。生活道路の曲がりくねった小道と合わせていい感じの風情があります。
いつも通るだけできちんとお参りしないのは罰当たりなのだが、線路沿いの通り道として欠かせない場所。六地蔵というのは普通にあるが、この寺には十三体ほど祭られている。春には櫻、初夏にはお寺らしくすっきりとした風情の牡丹が美しい。
| 名前 |
光明院 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
03-3390-4647 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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荻窪駅から『本むら庵』さんへ行く際に通り抜けで通過しました。よく手入れされており、雰囲気良いですね。お地蔵さんたくさんあって、夜は怖そうでした。うんちく光明院は、東京都杉並区上荻二丁目にある真言宗豊山派の寺院。 創建は奈良時代以前と伝わっており、杉並区でも屈指の古刹と言われている。正式名称は慈雲山荻寺光明院といい、駅名にもなり当地付近の地名である荻窪の由来になった寺と言われている。