歴史探訪、久米川古戦場へ!
久米川古戦場跡の特徴
鎌倉幕府VS新田義貞の歴史的な戦いの舞台です。
古戦場跡に建つ歴史の記念碑が不思議な雰囲気を漂わせます。
八国山の東南麓に位置し、心地よい散策が楽しめます。
鎌倉幕府VS新田義貞 鎌倉幕府が滅亡したきっかけの小手指原の戦い・久米川の戦い・分倍河原の戦いの内の1つ。当時の名残はまったくなく、石碑がひっそりと建てられているのみです。
鎌倉時代末期、鎌倉幕府の軍勢と新田義貞を中心とした倒幕勢力が戦った「久米川の戦い」が起こった場所。「久米川の戦い」とは、鎌倉時代末期に後醍醐天皇が起こした倒幕の内乱「元弘の乱」における戦闘のひとつ。元弘3年(1333年)5月8日、上野国で新田義貞が倒幕の兵を挙げ、幕府の本拠である鎌倉へ向け南進した。11日に倒幕軍を迎え撃つためやってきた幕府軍と武蔵国小手指原において衝突し、幕府軍は久米川まで退いた。翌12日、倒幕軍が久米川にいた幕府軍を攻撃、戦いは新田軍優勢で進み、幕府軍は分倍河原までさらに退却した。この後倒幕軍は鎌倉へと進軍し、最終的に北条氏を滅ぼし幕府を倒した。
久米川古戦場跡の碑はひっそりと建てられました道路とは反対側に文字が彫られてます昔は…ここで戦があったんですね!
夜に行ったのでよく見えなかったが、小さな公園のようなところに石碑と看板があるだけ。今度明るいときに行ってみよう。
新田義貞が鎌倉攻めの場所に当たり、わずかな空間に説明板が立っている。八国山の麓になる。
猫が3匹いました。
八国山の東南麓に位置する公園の一角にあります。鎌倉末期の古戦場跡は、小手指戦場が原跡もそうですが、名称と碑だけが残っているものが多いです。ここ久米川古戦場跡は、記念碑横に邦文と英文の案内板が設置されています。
歴史のある記念碑がありました。
東村山駅から徒歩で25分から30分かかります。路線バスを利用する場合、所沢駅と西武園駅を結ぶ西武バス(所18系統)に乗り、将軍塚バス停で降りると徒歩5分から10分ほどで着きます。路線バスは1時間に2~3本あり、終バスも遅い時間まであるので安心です。ここには駐車場はありません。住宅街の中にあるので、路上駐車はお勧めできません。あと、ここの近くに商店は見当たりませんでした。バス停からここまでの経路から少し外れたところにファミリーマートが一軒あるだけです。公衆トイレはすぐ隣の公園敷地内と、少し歩いて都立八国山緑地にあります。
| 名前 |
久米川古戦場跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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東京都下は東村山市に有ります「久米川古戦場」です。鎌倉時代この辺りは「久米川宿」と呼ばれ、上野国と鎌倉を結ぶ重要な交通路の古道だったとか。(鎌倉街道•上の道の宿駅だった)130年続いた平和な鎌倉時代にはそんな場所でしたが…しかし…一度(ひとたび)戦が始まればここは戦場となりました。(*鎌倉時代が平和と書きましたが、ちょこちょこと戦はありましたね。源頼朝亡き後の重臣による権力闘争や承久の乱、また元寇など)元弘三年(1333年)上野国の現•群馬県新田町の生品神社から、鎌倉幕府倒幕の為に新田義貞が挙兵しました。初戦の「小手指河原」の戦いにて新田義貞は鎌倉軍を破り、続いてこの「久米川古戦場」にて第二戦が行われたと伝わります。新田義貞軍はこの二戦目も勝利し、そして後ろの八国山という里山の頂上に塚を築き勝利の証として旗を立てたと伝わります。(将軍塚)因みにこの久米川古戦場今は小さな公園の中に説明書が有るだけで、遺構は何も無いです。なので、すぐ後ろの八国山にトレッキングして「将軍塚」を合わせて見学すると良いでしょう。(将軍塚も石碑が有るだけで、他には何も有りませんが…)将軍塚は約90m程度の里山の頂上ですので、トレッキングと言ってもお散歩ぐらいの短い道のりです。ご安心を。因みに隣接する東京白十字病院の西側にハ国山緑地公園の無料駐車場が有り、そのすぐ前の入口から里山に入って行けます。参考まで。*病院の駐車場と並んでいますので、お間違いの無い様に。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の後に約130年続いた一刻(ひととき)の安寧の世である、源•北条時代の終焉に思いを馳せて回ってみると…感慨深いかもしれませんね。近くで何か美味しいラーメンでも食べて是非にブラりと散策をしてみましょう。(*源•北条時代と書きましたが、鎌倉幕府を滅ぼした新田氏も本姓は源氏ですし、次の時代の足利氏も本姓は源氏ですね。北条氏の本姓は平氏です)