妖怪伝説が息づく興淵寺。
興淵寺の特徴
杉山が見渡せる絶景ポイントが楽しめるお寺です。
平塚市小鍋島にある興淵寺の荘厳さが際立っています。
とても眺めのいい場所に位置する、立派なお寺です。
書にて「興淵寺」をしらべてみます【新編相模国風土記稿】【神奈川県皇国地誌残稿】2つの古文書から「妖怪(怪奇現象)の伝説と、それを鎮めたお坊さんによって再興された歴史」を持ったお寺です。怪奇現象の正体は、昔この地にいた高貴な人の側室の霊魂だったと伝えられています。彼女はお寺の境内にある深い池(淵)に沈んで亡くなってしまい、その強い未練が妖怪となって現れていました心外洞傳和尚が祈祷をすると、大きくて光る物体がお寺の中を回り、北西の角にある「神楽石(かぐらいし)」に収まったといわれています。この「神楽石(かぐらいし)」は現在もお寺に有ります。荒れ果てた過去を持ちながらも、再興した後は徳川幕府(3代将軍・徳川家光の時代である慶安2年)から寺領10石を認められる「御朱印」を授かるほどの格式高いお寺になりました。______________❷【参考 神奈川県皇国地誌残稿 1964年】昔、この場所に身分の高い人が住んでいました。その人がとても可愛がっていた側室(愛妾)が、境内にある深い池(淵)に沈んで亡くなってしまいました。この女性の霊は消え去ることなく、怪奇現象を起こしたため、霊を慰めるためにお寺を建てて「圓光院(えんこういん)」と名付けました。しかし、お寺を建てても霊が静まることはありませんでした。それどころか、お化けの騒ぎはますます激しくなり、お寺の建物は荒れ果てて壊れ、人が住めなくなってしまいました。それから100年もの間、その土地は誰も近づかない見捨てられた場所になっていました。その後、心外洞傳(しんがいどうでん)というお坊さんがやってきて、ここに住みたいと言い出しました。地元の年老いた農民が「ここはお化けが出るから、住まないほうがいい」と止めましたが、心外洞傳和尚は「それこそ私の望むところだ」と答えました。和尚が祈祷を始めるとやがて、大きな光る物体がお寺の中をぐるぐると回り、北西の角にある「神楽石(かぐらいし)」の中に吸い込まれるように収まりました。亡くなった側室の法名は「龍湫院殿明室円光禅定尼」といいます。神楽石はこの側室の霊魂そのものであると言い伝えられており、長さが61センチほどの石です。この石は、今もなお残っています。____________❶【参考 新編相模風土記 1830年】興淵寺 江戸の頃のこのお寺の紹介文お寺本尊 釈迦興淵寺の山号は龍湫山(りゅうしゅうざん)といいます。曹洞宗のお寺で、津久井県根小屋村にある功雲寺(こううんじ)の末寺です。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)です。文亀元年(1501年)2月に、尭翁舜(ぎょうおうしゅん)と在天了(ざいてんりょう)という2人の僧侶によってお寺が開かれました。しかし、その後に怪しい出来事が起きて、お寺は荒れ果ててしまいました。元亀年間(1570年〜1573年)になると、心外洞傳(しんがいどうでん)という僧侶がこの場所に小さな庵(いおり)を建てました。彼が熱心に祈願を続けたところ、それ以降は怪しい出来事が全く起こらなくなりました。そこで、地域の有力者であった杉山修理(すぎやましゅり・寛永16年8月12日に死去。法名は白月宗蓮)や、杉山源左衛門(すぎやまげんざえもん・法名は聲安道音)、そして村人たちが力を合わせてお寺を再興しました。この再興にあたり、怪事を鎮めた心外洞傳を開山(初代住職)とし、龍湫院明室円光尼(えんこうに)を開基(創設の支援者)としました。この円光尼の詳しい実績は分かっていませんが、境内に彼女のお墓があります。その目印となっている石は「神楽石(かぐらいし)」と呼ばれています。)このお寺は、最初はお寺を開いた円光尼の法号から名前をとって「圓光院(えんこういん)」と名乗っていました。しかし、のちに現在の「龍湫山 興淵寺」に改めたといわれています。慶安2年(1649年)には、徳川幕府から寺領として10石を認める御朱印(公式の領地証明書)を授かりました。[号] 龍湫山[宗教] 曹洞宗 津久井縣根小屋村功雲寺末_____________________【訪問 2024年05月11日】
杉山、やすらかに、、
| 名前 |
興淵寺 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0463-55-2267 |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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とても眺めのいい場所にある立派なお寺です。