歴史を感じる野毛の切通し。
安政6(1859)年、東海道と開港場を陸路でつなぐ横浜道を通すために野毛の山が切り開かれ、この辺りは野毛の切通しと呼ばれ、直角に曲がって、野毛、吉田橋へと続く道になりました。開港場を目指して全国から集まる人々や 物資が行き交い、輸入された様々な文物もまた切通しを 通り全国に伝えられました。その後、北側の平沼新田が東海道本線や現国道1号線の整備と宅地化が進むと、当時の繁華街、伊勢佐木町への通り道として利用されるようになりました。現在の切通しは、昭和3 (1928)年に市電長者町線の整備の際に 道幅を拡幅・切り下げしてできたもので、東側の石垣はその頃に築造されたものです。西側の野毛山住宅 亀甲積擁壁(旧平沼専蔵別邸石積み擁壁及び煉瓦塀) (市認定歴史的建造物)と共に、往時の壮観を今に伝えて います。戦後、横浜駅から桜木町方面の道路とともに、三ツ沢から桜木町への道路が、運河が埋め立てられ 整備されると、野毛の切通しの重要さは薄れましたが、今も根岸台や山元町からのバスが横浜駅東口へ頻繁に走る、市民にとっては重要な場所になっています。なお、東側の石積は野毛の切通しと、掃部山から御所山の、旧 海岸線に当たる石積とは 異なっています。
| 名前 |
野毛の切通し |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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横浜道を戸部方面と野毛を結ぶ、石垣が曲がりながら山を削って造られた道がある。これを「野毛の切通し」と呼ぶ。当時は今より切通しは高い所にあり、道幅はずっと狭かった。不便であった東海道筋と開港場を結ぶ、横浜道の一部。明治6年(1873)には外国人技師デービスにより切り下げ工事が施工され、関東大震災復興時の昭和3年(1928)には市電長者町線の整備に際してさらに深く切り下げられた。切通しの左右で石積みの型が違う。