鎌倉幕府の足利邸址、歴史の息吹。
足利公方邸旧蹟の特徴
鎌倉にある史蹟で、訪れた人を魅了します。
石碑によって歴史を感じることができる場所です。
遺構は無いものの、歴史探索に最適なスポットです。
足利尊氏の先祖・義兼が鎌倉幕府開創の時にここに居を構えて以来、代々足利氏の屋敷として使われたと伝える。室町時代には尊氏の4男で初代鎌倉公方(当時は関東管領)基氏がここを居館とした。5代鎌倉公方・成氏の時に下総古河に移ったので(古河公方)、以後は廃墟になったという。鎌倉駅からは泉橋バス停で下車。バス通りを数十メートル戻り、路地を右に入ってすぐ。石碑だけで遺構は存在しない。
鎌倉名物の旧跡を示す石碑の1つ。70数カ所ある中でこちらの建立は青年会によるもの(大半は青年団)メンテナンスがされており、字が読みやすいのは大きな評価点だ。民家の敷地間の境目に立っているので、見つけにくいかもしれない。
2023/1/9こんなに鶴岡八幡宮から離れた場所にあったのかと言う感じ。周囲は山や川に囲まれており、比較的防御にも適していたのかも。
かつて鎌倉幕府の大倉御所や宇津宮辻子、若宮大路御所があった場所は、いまとなっては学校や住宅街になっていて、ここに政治の中枢が置かれていたとは、とても思えません。ここも、かつて関東一円を支配したという関東管領があったとは思えないくらい、静かな住宅街になっていて、その面影は全くありません。足利義兼の住まいが、こちらにあり、その子孫もこの地に住んだとのこと。義兼は、源義家の曽孫で、頼朝の挙兵に応じ、平氏を討って功をあげ、さらに奥州の藤原氏討伐でも活躍、その縁で北条時政の娘で政子の妹時子を妻にしたそうです。鎌倉幕府でも頼朝の重臣として高い地位にあったとのことです。子孫の足利尊氏が京へ移り室町幕府を開いた後、その子、兄義詮が二代将軍となり京の邸宅を継ぎ、弟基氏が関東管領となり、代々この邸宅で指揮を執ったそうです。いまは、鎌倉駅を中心とした地域に行政機関が集まり、観光客で賑わっていますが、かつては、六浦道の往来も盛んで、行政の中心もこちらにあったということでしょうか。ちょっと想像できないですね。
金沢街道から小道を入ってすぐ、普通の民家の敷地にぽつんと石碑だけあります。前の道は狭いので車ではなく徒歩がおすすめです。
鎌倉時代初期の頃から、代々足利氏の邸宅があった場所です。特に、太平記に出てくる足利氏の鎌倉における活動拠点がここであると思うと感慨深い場所です。足利尊氏の活躍する大部分は、足利市でもなく京都の六波羅でもなく、ここ鎌倉のこの拠点で行われたのです。目の前を流れる滑川を色々な気持ちで尊氏も眺めたことでしょう。It is a place where there was a house of Mr.Ashikaga from the early generation to generation among the Kamakura period.In particular, I think here is a great place where Mr.Ashikaga's activity described Taiheiki base that appears in Kamakura.The majority of Takauji Ashikaga's activities took place at this site here in Kamakura, not in Ashikaga City or in Kyoto's Rokuhara.
鎌倉にはよくある史蹟です。
明王院へ歩いて向かう途中でふと見つけました。
源頼朝の親戚筋で北条政子の妹を妻とし、鎌倉幕府開幕に貢献した源氏の名門・足利義康が屋敷を構えて以来200年、子孫がこの地に居住した。室町幕府を開いた足利尊氏もここに居住し幕府開幕後に京都に移った後は、2代将軍義詮の弟・基氏が関東管領としてここで政務を摂り東国を収めた。現在は地元青年団が建てさ石碑のみが住宅地の一角に残る。
| 名前 |
足利公方邸旧蹟 |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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遺構は無いが、石碑によって場所が判る。鎌倉と言えば源頼朝と鎌倉幕府のイメージが強いが、室町時代の鎌倉府(関東公方&関東管領)の存在も、歴史的事実として後世に伝えるべき話である。