庚申橋の袂で歴史を感じる。
庚申橋供養碑の特徴
庚申橋の袂に位置する歴史的な供養碑です。
六臂合掌青面金立像が特徴的な史跡です。
江戸時代の庚申講の供養塔が由来の場所です。
寛政11年建立の橋供養碑。渋谷川にかかる庚申橋のたもとにあります。青面金剛の顔は若干欠かれていますし、講や個人の名を記した下部も欠けていますが、今は大切にされついる印象です。
江戸時代は色々なところからの交通路として庚申様が祀られたようで橋名も同様更新橋となっている、迅速図にも道・橋共に描かれていて、今はコンクリートで落合水再生センターの水が5~6m下の底の方をちょろちょろと流れているが、昔はどうだったのかと思いを馳せる。
庚申橋の袂にある供養碑。花が供えられており、単なる史跡だけではなく、信仰の対象なのでしょうね。2024年7月4日訪問。
後ろに架かる庚申橋の名前はこちらが由来だろう。彫られている青面金剛は頭身が高めだ。説明書きにもあるが広い地域の人々の名前が刻まれているのが特徴であり、資料的価値になっている。覆堂のお陰か状態は良い部類である。
上部に六臂合掌青面金立像、下部2/3ほどは橋講中を中心とした施主名で埋め尽くされています。上方に日月(日輪は欠損)。右上手に三叉戟、左上手に法輪、両下手に弓矢。主尊の左右に「天下泰平」「国土安穏」足下に邪鬼を踏み、下方の三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)は、それぞれ、あっちゃこっちゃを向いています。二本の手をクロスさせている仕草は珍しいと思います。この石碑は、庚申塔の様式を踏襲していますが、あくまでも橋供養碑(橋を架け変えたことを記念するもの)であって、渋谷川に架かる庚申橋が寛政11年(1799年)に架け替えられた際に建立されています。ちなみに、翌1800年の干支が庚申です。それでは、この橋は、どうして庚申橋と命名されていたのでしょうか?庚申信仰とは関係なく、単に干支からとったものだったかも知れませんし、あるいは、もともと近くに別の庚申塔があった可能性が考えられるのではないでしょうか。
庚申橋の建設碑と、江戸時代に盛んに行われた庚申講の供養塔の二つの由来がある面白い史跡。保存状態も非常に良好で上部の青面金剛の彫刻や建立者名もはっきりと確認できる。建立者名が用賀や瀬田等広いエリアに及んでおり、この橋を介した交通が当時とても重要なものであったことが伺える。
渋谷と恵比寿の間にある供養碑。JR恵比寿駅から徒歩5分、渋谷駅・代官山駅からは徒歩10分、明治通りの1本裏の通りの恵比寿エコー劇場の前、渋谷川のたもとにあります。案内板には「1799年に建てられ、四面すべてに橋講中の世話役や万人講及び個人の名が、渋谷、麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋、市ヶ谷、目黒、中野、世田谷、荻窪と広い範囲にわたり刻まれており、この橋が江戸時代重要な交通路であったことがわかる」とあります。あまり目立たないのでうっかりすると見逃します。
見過ごしてしまいそう!
橋の手前にあります。
| 名前 |
庚申橋供養碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
〒150-0011 東京都渋谷区東3丁目17−17 メルベイユ恵比寿 303 |
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橋の袂にある供養碑。庚申の仏である青面金剛が描かれているので庚申橋の名の由来となったのであろう。