金春の歴史、幕府の能役者。
金春屋敷跡の特徴
銀座八丁目にある金春家の屋敷跡、歴史の深みを感じます。
道路脇に説明板があるのみで、当時の名残が伝わっています。
幕府お抱えの能役者として名を馳せた家柄の歴史が息づく場所です。
金春屋敷跡があります。江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春(こんぱる)・観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)の四家がありました。能楽は宝町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受けて大いに興隆しました。とくに、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召しかかえられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。元禄6年(1693年)頃の江戸市中の状況を記した『国花万葉記』によると、金春大夫は山王町(現在の銀座)・観世大夫は弓町(現在の銀座)・宝生大夫は中橋大鋸(おが)町(現在の京橋)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座)に屋敷を拝領していたとされています。金春家は、寛永4年(1627年)に屋敷を拝領したといわれ、寛永9年(1632年)の江戸図『武州豊嶋郡江戸庄図』には「金春七郎」の名を確認することができ、現在の銀座8丁目6・7・8番地全体を占めていたように図示されています。後に、この屋敷は麹町善国寺谷(千代田区麹町3・4丁目)に移りましたが、跡地には芸者が集まり花街として発展していき「金春芸者」といわれるようになりました。金春の名は、「金春湯」・「金春通り」などとして、今もこの地に残っています。
説明書きのみだが、歴史を感じます。後世に残すって大切。
痕跡は無く、説明文が在るのみです。
幕府お抱えだった能役者の金春家の屋敷があり、屋敷が移動した後は花街になったそうな。
金春(「こんぱる」と読むそうです)家は、江戸時代、幕府直轄の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄で、幕府の儀礼に関わる式楽に定められ、現在の銀座八丁目に屋敷を拝領していたそうです。その後、屋敷は麹町へ移り、跡地には芸者が集まり、花街として発展したそうです。ずいぶん以前(150年ほど前)に移ったので、今となっては当時をしのぶものが何も残っていないのですね。金春の名前は、いまも「金春通り」として残っていて、毎年8月7日には、金春流宗主自らが能楽を舞う「金春祭り」が行われているそうです。昨年の情報ですが、18:00開演、立ち見もできるそうです。今年の8/7は金曜日ですが、仕事が終わった後に、ちょっとのぞいてみようかな。
うーん「能役者、今春家屋敷跡」。看板だけで、いまは時計屋さんです。
道端に説明板のみあります。
この立て看板以外は何もありません。
道路脇に説明板があるだけで、それ以外にここの歴史を知り得るものはありません。秀吉、そして江戸幕府に保護された能楽の金春家の大きな屋敷があったことを知ることができます。川縁の風情ある場所だったのでしょうね。
| 名前 |
金春屋敷跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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金春という地名についての由来が知れた。