忠臣蔵の最後の地、静寂の歴史。
大石内蔵助 外十六人忠烈の跡の特徴
高輪の団地内にひっそりとある、歴史的な跡地です。
忠臣蔵の大石内蔵助が切腹した、特別な場所として知られています。
毎年12月14日の義士祭には、多くの人々が訪れ賑わいます。
泉岳寺には多くの参拝客がいましたが、こちらに来る人は見かけませんでした。
討ち入りの日(12/14)の前日に開門し公開されていましたので訪問させていただきました。赤穂浪士が切腹した場所について、ボランティアの方が案内していただいた話は非常に興味深いものでした。 聞いた話しをまとめると大石内蔵助をはじめ赤穂浪士たちが切腹した場所は、切腹の場が特定できているのはこの場所だけ。切腹した際の配置や動きは、絵画などに細かく記録されており、例えば、大石が座っていた場所は、藩によって石が埋め込まれて現在も目印として残している。また、切腹する際には血が飛び散るので、畳を取り替えたり、砂を入れ替えたりして清めていたそうです。次の人が待っている間は目隠しもしていた。十七人の切腹、介錯は一刻(およそ二時間)のうちに終えられた。切腹は武士にとって「名誉」と思われがちだが、実際は最も厳しい刑罰であった。ただし、武士としての身分が認められたという点では、浪士たちは感謝していたそうです。切腹が決まったのは前日で、介錯人も急に選ばれたため、ぶっつけ本番で行われました。そのため、すべてがスムーズに進んだわけではなかったようです。さらに、切腹だけでなく家族への影響も大きく浪士たちの子どもたちは島流しにされるか仏門に入ることを求められ、妻たちも厳しい運命を背負うことになった。切腹の背景には、武士の価値観や時代の常識があった。今の価値観で見ると理解しがたい部分もあるが、当時の感覚では筋の通った行動だった。この物語には悲劇的な面も多いが、侍の覚悟や武士道の精神は、現代でも日本人や外国人から注目されている。 お墓にお参りに来る外国人が増えた。 昔は、これらの行動はナンセンスだと言われたが、今はリスペクトだという日本の武士道の心が広く知れ渡ってきたものと感じる。案内の方が最後におっしゃっていたのは、こうした歴史や価値観を、今の時代にどう次の世代に伝えていくかが大切だということでした。
2024年12月7日午前中訪問泉岳寺の北、都営アパートの一角にある忠臣蔵の大石内蔵助ら義士たちが切腹した地にある記念地もともとは細川家の屋敷の庭やったそう義士祭の時には中に入れるそうで何年か前に一度入ったことがあるさあ。
入ることは出来ませんが、窓があるので外から中が伺えます。元々は細川家の大名屋敷の庭だったようです。ここで義士が切腹したのだと思うと感慨深いです。
団地の一角の森の中にあるといった感じです。切腹当時は守り神として大事に遺構は残されていたようですが、代が変わると破棄されたという波乱の歴史を持つ場所です。ガラス窓から中を見ることができますが私有地なので立ち入る事はできません。
12月14日の討入りの日は、中央義士会がここを開けてます。是非ともお越し下さい。
泉岳寺から徒歩10分位にあります。一度は訪れるといいと思います。
静かに手を合わせたい…。
団地の背後にあり場所は分かりづらい。跡地は塀に囲まれていて入れないが、大きな窓があり良く見える。ただ手入れがされているのかな。周辺に時代劇ファンにはお馴染みの場所が多く、見どころはあります。足に自信がある方は泉岳寺から歩いて見ては。
| 名前 |
大石内蔵助 外十六人忠烈の跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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