807年の風格、安産祈願の神社。
子安神社の特徴
創建807年の歴史ある神社で、風格が感じられます。
安産・子育て・子授かりの神として、厚い信仰を集めています。
幻想的な苔に囲まれた美しい社殿が、訪れる人を魅了します。
2024/06/19 初訪問。とても神秘的で不思議な気持ちになる空間で心が落ち着く感じがしました。素晴らしい神社でした✨
『東野寺 子安神社』住所→ 〒315-0072 茨城県かすみがうら市東野寺239−1祀神︰木花咲耶姫命、武甕槌神御朱印:あり駐車場:あり(社務所前の空き地を駐車場という扱いとしているらしい)備考:・創建は、807年。・江戸時代の頃から、安産の神様として知られていた神社。・源頼義、義家父子が奥州を攻める際、戦勝祈願をしたという逸話がある。・拝殿は江戸初期からあり、建て替えはされていないそう。・参道には、椿や山百合、キツネノカミソリなどが自生している。・9月に例祭があり、子安講の代表が参列して御祈祷を受け、御札を受け取るらしい。・御朱印は、書入可能#神社#御朱印#子安神社#結月大佐の御朱印さんぽ。
7月19日水曜日☀、10時頃子安神社に来ました、、誰もいません、参拝を済ませ、社務所でチャイムを鳴らして、御朱印書いていただきました、なんか風格のある神社です。
別世界のような感じです。とても落ち着きました。ありがとうございました。🙏
なかなかいい感じにコケがあります。
御祭神は木花開耶姫命・武甕槌命。御由緒は当社HPによれば「大同2年(807年)駿河国富士浅間大神と鹿島大神の御分霊を鎮齋。天喜4年(1056年)源頼義・義家公父子奥州御討征の途次、再度にわたる御参拝で奥羽鎮定と奥方の安産を祈願。康平6年(1063年)征奥の大任を終え凱旋の折り、神護天祐のあらたかであったため、当社に報賽、社殿修営祭祀料の寄進をして源家累代尊襲すべきものと定めた。」とあり,源頼義・義家公父子が参拝したのは,現石岡市三村の正月平に宿営した折でしょうか。明治6年村社列格,同44年供進指定。また,当社は延喜式内社(小社)「常陸國茨城郡 夷針神社」に比定される論社です。論社というからには他にも候補がありまして,茨城町大戸「夷針神社」・「かすみがうら市西野寺「胎安神社」・石岡市小屋「足尾神社」・笠間市泉「飯綱神社(愛宕神社境内社)」とあります。さらには「羽梨山神社」の論社でもあります(どちらも根拠が有力とまでは云えません)が,そうあっても不思議ではないほど古くから在る社ということでありましょう。それにしても美しい神社です。木漏れ日煌めく参道に足を踏み入れるともうそこは別世界。神の領域とでも云うのでしょうか。また,緑の苔むした境内は幻想の世界そのものです。言葉をいくら尽くしても伝えられないので,写真をご覧いただければ分かると思います。さらに御本殿の彫刻の素晴らしさは,御本殿が江戸初期の建立とのことで,現代では再現出来ますかどうか,そういうレベルです。今年,最近の土日ですが,7月は長梅雨。8月は熱中症警戒アラートとなかなか聖地巡礼(ご当地アニメじゃありません)に出かけられなかったのですが,今日(午前のみ珍しく晴)参拝に来ることが出来て本当に良かった,そう心から思えます。
女性の神主さん?に対応してもらいました きれいな御朱印です森林と竹やぶに囲まれた静かな神社です 彼岸花、赤蛙、蚊の大群が歓迎してくれます。
鳥居を車でくぐって向かいます。Uターンするのに狭いので気をつけてください。
通りには看板が出ており分かりやすいですが、駐車場は…??なかんじです(^_^;)鳥居をくぐって直進、社務所の前まで車で行って大丈夫なようです。安産育子にご利益のある神社です。鎮守の森にしっかり護られており、穏やかな気のある場所でした。一緒にお参りした息子は、「ジブリに出て来そうな雰囲気」と。こちら、近くに御鎮座されている胎安神社(たやすじんじゃ)様と同様、拝殿正面に見事な龍の彫刻がありました。本殿の彫刻も素晴らしい!!神社好き、御朱印好きな私、実は神社の彫刻も大好きです。本当に素晴らしい作品ですので、お参りさせる方はぜひ彫刻も細部までご覧下さい(^^)社務所は不在でしたが、向かって左側のインターホン(?)を押すとすぐご自宅から神職様がいらして下さり、御朱印も頂けました!また、パワーを頂きに参りますね。ありがとうございました。
| 名前 |
子安神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0299-23-1443 |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 9:00~16:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
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子安神社(こやすじんじゃ)。茨城県かすみがうら市東野寺字宮久保。式内社(小)夷針神社の論社、旧村社。主祭神:木花開耶姫命 武甕槌命資料によると、社伝によれば、大同二年の創祀。詳しい由緒は、わからなかったが、式内社・夷針神社の論社のひとつ。夷針は、「イハリ」「イシン」「イシム」などと読まれるが、ある説では、「ヒラハリ」と読み、アラ→バラ→ビラ→ヒラと訛ったとする。つまり、夷針は新治のことで、新治に鎮座の社である当社が論社となった(この辺りが新治地区であったと言う事か)。とあります。参考として、同地区の、胎安神社(たやすじんじゃ)と同様に、笹竜胆の紋が使われている事から、胎安神社のところの由緒、「八幡太郎(源)義家が奥州征伐の途上、内室の為に胎内安全安産を祈願され、嫡男出産の日を祭日と定められて、参拝したといい、源氏の代表紋である笹竜胆の使用を許されたらしい。」に子安神社も関係することが想定されます。