藤丸勝俊の居城、赤岩城跡。
赤岩城跡の特徴
赤岩城跡は藤丸勝俊の居城で、歴史を感じる場所です。
加賀一向一揆の舞台として、当時の歴史を学べます。
山中温泉地域に位置し、自然に囲まれた静かな雰囲気です。
加賀一向一揆の将 藤丸勝俊の居城であった様です。藤丸氏は播磨 赤松氏の一族で、赤松氏が南北朝期前後に加賀を治めていた時期に同行し、その時に加賀に土着したと思われます。(赤松氏の居城 播磨置塩城の別名は藤丸城)戦国時代になると藤丸氏は加賀一向一揆の一勢力となっていた様ですが、織田信長配下 柴田勝家によって一向一揆が壊滅されると、藤丸勝俊は上杉景勝に仕え、越中魚津城の守将 (魚津在城衆12名連署状) 12将の1人として柴田勝家や佐久間盛政等と交戦。魚津城落城時には上杉軍の守将達とともに自刃した様です。その翌日 本能寺の変で織田信長が討たれますので、もう数日 魚津城が持ちこたえていれば… と思わずにいられません。
| 名前 |
赤岩城跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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赤岩城跡は、加賀市の山中温泉地域にある山城跡で、一向一揆の武将・藤丸勝俊が拠点としたと伝えられる。織田方の攻勢と加賀門徒勢力の興亡を物語る遺構が静かな山林に今も残る。赤岩城跡(あかいわじょうあと)は、加賀市南部、山中温泉の山間に位置する戦国時代の山城である。城主とされる藤丸勝俊(ふじまる かつとし)は、加賀一向一揆の指導的な立場にあった武将の一人で、門徒勢力が守護を排除して加賀国を支配していた時期に活躍した人物である。藤丸の名前は江戸時代の地誌や郷土資料にも伝えられており、加賀地方における門徒武将の代表格として知られている。城の築城年代は定かでないが、藤丸が拠点を構えた時期にあたる16世紀中頃から後半と推定される。構造は尾根上に連なる小規模な山城で、細長く伸びる主尾根上に曲輪(くるわ)を配置し、土塁や堀切などによって防御性を高めていた。主郭に相当する平場の一角には、櫓台の代わりともなる大きな岩塊が据えられていたと伝わる。尾根筋に沿って帯曲輪が連なり、側面には竪堀の痕跡が残る。周囲を遮る空堀や堀切によって他の尾根からの接近を防ぐ構造が読み取れる。赤岩城の位置については、現在は加賀市山中温泉滝町に属するが、江戸期の地誌『江沼志稿』(1844年)では荒谷村と記されるなど、当時の村境に関する記録には揺れが見られる。とはいえ、現在の所在地には城跡と一致する遺構が確認されており、付近には礎石と見られる石が点在する。行政指定はされていないが、加賀市が策定した歴史文化基本構想では「歴史文化資産(史跡)」の一つとして挙げられている。藤丸勝俊は、天正年間に織田信長の北陸方面軍と対峙した加賀門徒勢力の中心人物の一人であった。天正3年(1575年)頃、一向一揆と対立していた織田方の柴田勝家が加賀に進出した際、藤丸はそれまで拠っていた千足城から赤岩城に移ったとされる。その後の攻防の詳細については、諸説が残されており、明確な史料は確認されていないが、藤丸が加賀から退去したのちは越後の上杉謙信に接近したとも伝えられる。実際に藤丸勝俊の名は上杉家の名簿にも見られる。その後、加賀の一向一揆勢力は天正8年(1580年)までに織田政権によって制圧される。赤岩城がいつまで使用されたかは明らかではないが、慶長年間(1596〜1615年)には、加賀藩家老・山口玄蕃が赤岩城を含む山中の残存拠点を掃討し、城は廃城となったとされる。加賀市の基本構想文書には「山口玄蕃が攻め落とす」との記述があり、このときに赤岩城も完全に破却されたものとみられる。文献によっては、赤岩城は「赤尾城」とも呼ばれている。これは誤写や異読に由来すると考えられており、近世地誌の中で混同された例もある。たとえば『加賀志徴』では滝村領と記し、『江沼志稿』では荒谷村とするなど、同一の場所を指していながら記述に差異がある。また、地元には藤丸勝俊に関する伝承がわずかに残されている。『藩国見聞録』には、今立村の仁左衛門という人物が藤丸家の代官筋にあたる家の出であると語られており、落城後もその関係者が地域に定着していた可能性を示唆する。『江沼志稿』にも、落城後に家臣の屋敷跡が菅生谷にあったと記録されている。赤岩城跡が築かれていた加賀南部の地域には、他にも戦国時代の一向一揆に関連する拠点が点在する。たとえば、同じ山中温泉地域の黒谷町には山中黒谷城跡がある。この城は一向宗徒が築いた大規模な山城で、永禄年間に一度焼かれた後も再び使用され、天正年間に織田軍に攻められて落城したとされる。赤岩城と黒谷城は、ともに山中の尾根を活かした要害地に築かれており、加賀南部の防衛網の一端を担っていたことがうかがえる。さらに、塔尾町の超勝寺跡や山田町の光教寺跡(光闡坊)なども加賀一向一揆に関連する宗教的拠点であり、赤岩城と同様に地域の歴史的景観の一部を形成している。これらは、藤丸勝俊の活動範囲とも重なる位置にあり、軍事・宗教の両面で一向宗門徒勢力の実態を示すものといえる。一向一揆勢力が平定された後、加賀は前田氏による支配下に入り、地域の城郭構造も再編された。赤岩城の西方には、江戸時代を通じて大聖寺藩の政庁が置かれた大聖寺城がある。この城は近年、国の史跡に指定され、加賀藩支藩の中核を担った政治・軍事の拠点として整備が進んでいる。赤岩城と大聖寺城の関係は、戦国の混乱期から近世の統治体制への転換を象徴するものであり、加賀における城郭史を考えるうえでも重要な位置を占める。今日、赤岩城跡は山林の中にひっそりと佇み、遺構は未整備の状態で残っている。案内板や整備された登山道は設置されておらず、現地踏査には一定の山歩きの装備が求められる。遺構の保存状態については、雑木林に覆われながらも、曲輪や堀切の地形が判別可能であり、藤丸勝俊が拠った一向一揆の山城の実像を静かに伝えている。赤岩城跡は、小規模ながらも確かな史跡として、一向一揆の拠点網とその変遷、そして前田氏による加賀統治の成立過程を理解する上で貴重な位置を占めている。地域に点在する関連史跡とあわせて、戦国末期から近世初頭にかけての加賀の歴史を立体的に感じ取ることのできる場所である。