加賀市の田んぼに佇む、じょうじゃの釜。
じょうじゃの釜の特徴
加賀市宮地町の田んぼにぽつりと鎮座する歴史的な石です。
地元でじょうじゃの釜と名付けられた特有の呼称があります。
加賀立国1200年の記念すべき年に訪れた貴重な体験ができます。
加賀立国1200年の今年、初めて訪問。片山津ICから温泉街に向かう県道沿いにぽつんと置かれた巨石、通称・じょうじゃの釜。加賀市指定文化財(史跡)としての正式名称は宮地廃寺塔心礎石。発掘調査で出土した瓦や須恵器などから7世紀後半の白鳳時代、100m四方に寺域のあった廃寺と推定されている。まだ県道が未舗装だった昭和50〜51年に2次に分けて実施された発掘調査の報告書(図書館で閲覧できます)ではいくつかの建物の柱穴や遺構が確認されたものの、加賀市で確認されている他の寺院群ほどの手がかりは得られていない様子。ただ、時代をさかのぼった古文献には「宮地村、畑の中に七・八尺四方の大石あり、是九重塔台座と云う」(茇憩紀聞ばっけいきぶん)とか、「昔宮地村に寺あり」(江沼志稿)などと寺の存在を感じさせる記述が見られることから、またいつか調査が再開されることを願うばかり。ちなみに、巨石越しに眺める白山も雄大、綺麗でした。
| 名前 |
じょうじゃの釜 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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加賀市宮地町にある宮地廃寺塔心礎石(みやじはいじとうしんそせき)は、地元ではじょうじゃの釜と呼ばれる石で、いまは田んぼの中にぽつりと鎮座している。一見するとただの巨大な石だが、かつてここには7世紀後半の白鳳時代に建てられた立派な寺院があった。加賀市が指定する史跡のひとつだが、案外知らない人も多いかもしれない。この廃寺跡が注目されるきっかけになったのは、1975年から1976年にかけて行われた発掘調査だ。その時の調査では須恵器や軒瓦、炉のような遺構などが見つかった。ただし、地形が耕作で改変されていたため、建物の輪郭を明確にするような柱跡などはあまり確認できなかったらしい。それでも、この土地から出土した品々は、寺が7世紀後半に創建され、奈良時代を経て、平安時代の前半ごろまで存続していたことを示している。この礎石の大きさは一辺約2.3mほどで、実際に見ると迫力がある。興味深いのは、中央に二段になった大きな孔が開いていることだ。こうした塔の心礎石は、多層の仏塔の中心を支える基礎で、ここに塔の心柱が立てられていた。つまり、目の前の田園風景の中にかつてそびえていたのは、かなり堂々とした仏塔だったのだろう。この地域では、こうした古代寺院跡が珍しくない。近くの弓波町には弓波廃寺があり、その寺の塔心礎は現在、忌浪神社の手水鉢に転用されたという地元の言い伝えもある。他にも保賀町の保賀廃寺跡や津波倉町の津波倉廃寺跡など、古代の加賀地域に仏教文化がいかに根付いていたかを物語る遺跡が点在している。宮地廃寺もそれらの白鳳寺院の一つとして、古代の加賀における信仰や生活の一端を今に伝えている。また、宮地廃寺の周辺には、寺院が存在していたことを裏付ける地名もいくつか残っている。「テラノマエ」「ヨコモンシタ」「コウド」などがその例で、特に「テラノマエ」という地名からは、かつてこの一帯に寺の正面があったことが推測される。土地の名前が千年以上前の風景を語りかけているようで興味深い。さらに宮地廃寺がある宮地町の周辺地域には、篠原古戦場や篠原古墳群など、他にもさまざまな時代の歴史遺跡が残っている。特に篠原古墳群の一帯は、古くから篠原合戦という平安末期の激戦があった場所として知られ、実盛塚や首洗池など、歴史にちなんだスポットも多い。こうした史跡と併せて歩けば、古代から中世までの加賀地域の歴史を深く感じることができる。宮地廃寺塔心礎石自体は、一見地味な存在かもしれないが、ここから広がる歴史の物語には引き込まれるものがある。ただ、訪れる際に少し注意が必要なのは、この塔心礎石が田んぼの真ん中にあり、特に雨の後など足元が緩くなることだろう。訪れる場合には靴や服装に少し気を配ったほうがいい。このように、何気なく目にする一つの石からも、その土地の古代文化や人々の営みを辿ることができるのは、とても興味深いことだと思う。宮地廃寺塔心礎石は、決して華やかな史跡ではないが、その存在感と歴史の厚みは決して侮れない。加賀市を訪れた際には、静かに古代の面影を感じてみるのも悪くないはずだ。