栃木市の歴史、川原田合戦塚。
升塚の特徴
大永3年に起きた河原田合戦の史跡を訪れてみてください。
隠れた場所にある小高い塚が印象的です。
西方城址見学と併せて立ち寄るのがおすすめです。
大永3年(1523年)、皆川城主の皆川宗成と宇都宮城主 宇都宮忠綱との間で戦闘がおこりました(河原田合戦)。宗成は討死をしますが、皆川軍は小山氏・結城氏の援軍を得て宇都宮勢を撃退しました。両軍合わせて約300名の戦死者を出し、その遺体が葬られたのがここと言われています。幹線道路から逸れ、小道を100メートル程入った所にこれはあります。小さな持仏堂が目印で、塚はその後ろにある土盛りの上です。古くは「古墳」と考えられていて、昭和初期の『紀元 二千六百年記念古墳調査』には「家中村 第一号古墳」として記録されています。その後の研究で現在の認識に至ったようです。最近栃木県内の病院に何回か通うことがあったので、周辺を散策してみました。栃木(下野の国)というと「干瓢」と「釣り天井」くらいの認識しかなかったのですが、周囲には6世紀から7世紀の古墳が多く存在します。壬生、皆川などの城址や戊辰戦争の古戦場などもあります。同じく「下」の付く、我が下総の国より歴史的なスポットは遥かに多いようです。20か所ほど探訪して写真に収めてきました。順次upさせていただきます。ちなみにこの「河原田合戦」が行われたのが現在の東武日光線「合戦場」駅近辺なのだそうです。
栃木市都賀町合戦場、 升塚、🍀 小高い塚です、皆川、壬生、小山連合軍と 宇都宮軍との戦い、 川原田の合戦の戦死者を葬つた場所だそうです、😺合戦場の地名は、ここから来ているそうです。🐈
西方城址見学の帰りに寄ってみました。宇都宮氏と皆川氏の合戦の死者を弔った場所とのことですが、20m強四方あるらしく結構大きいです。上れるようになっていますが、この下には亡くなった方々が眠られているのでしょうか?
目立たないところに小高い塚があります。たくさんの戦死者が埋葬されたそうです。今となっては、静かな環境です。
【私のイチオシ】何にもありませんが、私にとっては生まれ育ったとても大切な場所です。春になると桜の花がキレイに咲きます。近くを通られましたら、是非見に来てください。ちなみに私は葉桜が気に入っています(*^ω^)塚の下には六地蔵があり、これは昔水戸藩から、この地へ来られた6軒の家を表していると言われています。また、塚の東側にはお寺があったと言われており、経典は北東部にある共同墓地=経塚に納められていると言われています。
合併前の都賀町第一号史跡に指定されています。
河原田(川原田)の戦い(宇都宮氏と皆川氏の戦い)の犠牲者がまとめて弔われています。
| 名前 |
升塚 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0282-21-2495 |
| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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昭和45年に旧都賀町で第一号に史跡指定され現在は栃木市の指定史跡となっています。かつては古墳と思われていたようで戦前の記録に「家中村 第1号古墳 方形升塚」との記述があるそうです。以下 案内板より。今から四百八十三年前 大永三年十一月三日 皆川城主宗成とその嫡子成勝は川原田を中心に陣を張り宇都宮城主忠綱の軍勢千八百余を迎え討った。両軍譲らず大混戦となり、その雌雄決せず、翌日小山結城壬生援軍を得て、宇都宮勢を敗走させた。この戦いで皆川勢は宗成以下三十七人、小山勢十三人、壬生勢十人、宇都宮勢は二百五十人の死者を出し、里人はこの戦死者を一箇所に集め葬ったと伝えられている。案内板ここまで。史跡は住宅地に囲まれており説明文が無ければだれでも古墳と勘違いしそうです。ただ古墳と全く違うのは周りの雰囲気で、多数の戦死者を埋葬したとはいえ、多くの地蔵や石塔などの建造物が不随しているのには現代の私たちにはわからない深い理由があったと想像できます。石塔やお地蔵さまは時代を経ているように見えますが、中には明らかに最近建てられた石碑もあり、小堂も比較的新しいようで、こうした建造物が造られ続けられるという事は、枡塚は地元の方にとっては戦国時代から変わらない特別な場所なのかもしれませんね。