中世の栄華、片掛銀山跡。
片掛銀山跡の特徴
中世に発見された歴史ある銀山跡で、訪れる価値があります。
江戸初期に最盛期を迎えた貴重な産業遺産です。
昭和初期に閉じられた片掛銀山の深い歴史を感じられます。
片掛銀山跡。2025年12月5日に訪問。
片掛銀山跡(かたかけぎんざんあと)は、富山市南部の神通峡にひっそりと佇む、かつて栄華を誇った銀鉱山の跡だ。天正年間、今からおよそ400年以上も前に開かれたと伝わっている。戦国時代の末期から江戸初期にかけて、各地で鉱山の開発が盛んに行われた頃、片掛銀山もまたその流れに乗って開発された。興味深い伝承が残っている。ある日突然、野武士のような一団が片掛村に現れ、宿を借りるや否や翌朝から川で砂金や砂銀を探し出した。その男たちは見事に銀を見つけ出し、「この山には大量の銀が眠っている」と村人を説得して資金を集め、本格的な開発を始めたという。その一団は後に飛騨の茂住銀山を発見したともいわれる、鉱山師・茂住宗貞の一行だったという伝説だ。真偽はともかく、片掛銀山が歴史の大きな鉱山開発ブームの中で発見され、地域の歴史に刻まれたことは間違いないだろう。江戸時代には、この銀山は加賀藩と富山藩が共同で管理する重要な鉱山だった。神通川を挟んで西側は加賀藩の吉野銀山、東側が富山藩の庵谷銀山、そして片掛銀山というふうに管轄が分かれていた。両藩は山奉行を置き、鉱山師を雇い、坑道の掘削や銀の精錬を進めていった。最盛期の片掛銀山は非常に活気があったそうだ。記録によれば、寛文年間(17世紀後半)には坑夫や商人、旅人たちで賑わい、片掛の下町周辺には約300戸の家が立ち並んでいたという。坑道は片掛・庵谷・吉野を合わせると100ヶ所以上もあったといい、山の至る所で銀を求める人々の声が響いていたのだろう。鉱石から銀を精錬するためには、灰吹法という方法が用いられた。この方法は大量の木材や鉛を必要とし、結果として周囲の森林資源を大きく消費することになった。そのため、地元の農民たちとの間で森林伐採を巡る衝突も起きてしまった。こうしたトラブルや銀脈の枯渇に伴い、片掛銀山は徐々に衰退を迎えることになる。幕末から明治初期になる頃には銀の採掘量が激減し、採算が取れなくなったことで片掛銀山はほぼ閉山状態になった。一時は明治に再開発が試みられたものの、本格的な復興には至らず、山間の集落へと戻っていった。鉱山が栄えた頃の片掛は、単なる鉱山町ではなく、街道の宿場町としても賑わった場所だった。往時には村人たちが自ら歌舞伎芝居を上演し、その頃の絵馬が今も地元の神社に残されている。さらに、鉱山で働く人々の安全を祈った地蔵尊なども点在し、信仰の深さを物語っている。また、片掛銀山は地理的にも特別な場所だった。越中(富山)と飛騨(岐阜)を結ぶ重要な飛騨街道に面しており、近くには幕府が設置した猪谷関所があった。この関所では銀の不正な持ち出しを厳しく監視していたというから、銀山が地域の交通や行政にも影響を与えたことがうかがえる。現在の片掛銀山跡は静かな山間にあり、江戸期から明治期までの坑道跡や精錬炉の跡がいくつも残っている。案内看板も整備され、歴史を学ぶことができる。かつて銀山がもたらした繁栄と、それに伴った文化の興隆、そして時代の移り変わりの中で静かに閉じられた坑道跡を眺めていると、この地に刻まれた歴史の重みを深く感じることができるだろう。
中世の頃に発見され江戸初期に最盛期を迎え昭和初期に閉じられた銀山の後です。今は小さな穴が山肌にぽっかりと空いているだけです。
| 名前 |
片掛銀山跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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道路脇の2箇所の坑口が見つけやすいですが、勝手に崩れてきたのか、人為的に埋めたのか、あるいはその両方か。戦国期から開発された長い歴史がある銀山ですので、今も山中深くに眠っているこ坑口や坑道があることでしょう。山深い地で鉱業をやっていた人々もすごいけど、最初にここを見つけた山師はもっとすごいなぁ。