歴史を感じる高崎城東門。
高崎城 移築東門の特徴
高崎城東門は、出桝形の北側に位置している歴史的な通用門です。
十六の城門の中でも、本丸門や橋門と並ぶ重要な門として知られています。
慶長3年に井伊直政によって築城された高崎城の一部で、現存する貴重な門です。
もともとは高崎城の東側(現在の高崎シティギャラリー付近)にあった。廃城令の際に民間に払い下げられ、農家の物置として利用されていましたが、昭和55年(1980年)に発見され、現在の場所に移築・復元。農家も壊さずにいたので残ることができた。切妻造(きりづまづくり)」の本瓦葺きで、全体が黒く塗られているのが特徴です。乾櫓と並んで、かつての高崎城の面影を伝える数少ない遺構となっています。
高崎城東門は、もともとは現在のシンフォニーロード付近にあった通用門だったそうです。乾櫓と同じように移築されていたものを現在の場所に復元移築したとのこと。
高崎城東門は本瓦葺きの白漆喰仕上げで、向かって左端が大戸、中央が潜戸になっていて、右端が藩士の詰所となる武者窓付の番所で、東門を出入りする人物改めや荷物改めを行ったそうです。また、高崎城十六の城門の中で、潜戸がついていたのは東門だけで、通用門として使われていたそうです。明治の初めに名主に払い下げられたものを、復元移築し、市に寄贈したということです。乾櫓、東門の位置関係に違和感を感じていましたが、どちらも移築されたものだったのですね。明治政府の廃城令によって多くの城は解体されますが、城門が民間に払い下げられたと聞くと、時代が変わったからとはいえ虚しさを感じてしまいます。下記は、東門近くにあった説明書の内容です。高崎城東門の由来高崎城十六の城門中、本丸門(雀門)刎橋門、東門は平屋門であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。この門は寛政十年正月(一七九八年)と天保十四年十二月(一八四三年)の二度、火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。門に築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなってる。この門は明治のはじめ、当時名主であつた梅山氏方に払いさげられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。高崎和田ライオンズクラブは、創立十周年記念事業としてこれを梅山氏よりゆずりうけ復元移築し、昭和五十五年二月、市に寄贈したものである。昭和五十五年三月 高崎市教育委員会。
高崎城移築東門は民間に移築したものを、昭和時代にこの場所に復元移築された門です。この門は何処にあったのかはっきりわからないようです。
東門は、もとは追手門(現在の高松郵便局付近)から南約240mにある「出桝形」の北側(現在のシンフォニーロード付近)にあり、通常は扉を開き、城内に出入りする武士や商人などを通行させたいわば通用門でした。東門も乾櫓と同じように下小鳥町に移築されていたものを、昭和55年現在の場所に復元移築し、高崎市に寄贈されました。なお、櫻井家旧蔵「高崎城絵図並びに文書」などに描かれた東門とは形状が異なっています。一説に二ノ丸にあった藩主居宅の門であるとも言われます。
【高崎城東門の由来】高崎城十六の城門中、本丸門(雀門)橋門、東門は平屋門であった。そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われて寛政十年正月(一七九八年)と天保十1月(一八四三年)の二度、火災により焼かれ、現在のように建て直されたものと考えられる。くぐり声は乗篭が通れるようになる。門は築城当初のものよりかなり低くおり、乗馬のままでは通れなくなってこの門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払いさげられ、市内下小鳥町梅山大作氏方の門となっていた。崎和田ライオンズクラブは、創立十周年記念事業としてこれを梅山氏よりゆずりうけ復元移築し、昭和五十五年二月、市に寄贈したものである。昭和五十五年三月高崎市教育委員会。
詳しい事はよくわかりません。案内板には詳しく書かれていますが、そうか~い!って感じですかね。とにかく良く残っていてくれた!!こういう建造物見ていると、歴史の中に自分は生きているって実感するのです。皆で守っていかなければ、なんて思います。
もともとあった城の門ではありませんでした。説明文には移築して長く保存されてきたことは評価すべきところです。音楽センターに立ち寄ったついでに見る人が多いようです。
慶長3年(1598年)井伊直政は箕輪城から築城中の高崎城に移った。とあります。
| 名前 |
高崎城 移築東門 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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☆市中に払い下げれていた高崎城「東門」昭和55年(1980)現在地に移築、各格子の出窓ある納戸(番所)に大き目の潜戸付の中々趣のある平屋門、良く壊されず残ってたもんだと感心、元々の建造年はいつ頃、江戸時代後期の約200年前くらいの木造建造物でしょうか、貴重、実際は高崎城のどこで使われてたんでしょうか🤔