高負彦根神社でポンポン山の絶景を!
高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)の特徴
創建700年代の歴史ある神社で、古い由緒を持つ場所です。
裏手のポンポン山からは筑波山や赤城山の絶景が楽しめます。
神社入口には説明音声が聞ける二次元バーコードが設置されています。
横見郡の式内社3座は、直線距離で1.5km以内の近距離に鎮座しています。横見郡は横渟屯倉(よこぬのみやけ)の推定地。資料によると、髙負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)は、和銅3年(710)に創建した、平安時代の延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載されている社で、吉見町に鎮座する延喜式式内社3社のうち最も古く、かつ最初に官社に列しています。当社の鎮座する玉鉾山(ポンポン山)そばには、かつて荒川が流れ、水運の要所だったと考えられ、海洋貿易を盛んに行っていた壬生吉志氏との関わりが推測されています。江戸期には田甲村の鎮守として祀られていました。当社の周辺は、奈良時代の集落地跡「高負彦根神社周辺遺跡」として有名である。また、吉見町は安閑天皇元年(534)に置かれた横渟屯倉の推定地であり、大化前代に集落地が既に存在していたとみてよいであろう。屯倉管理のための壬生吉志氏の当地派遣が考えられ、正倉院の調庸墨書に「横見郡御坂郷日下部」とあり、後の承和十二年(845)、国分寺の七層塔焼失に当たり、男衾郡の郡司大領(長官)の「壬生吉志福正」が再建している。これら吉志氏は摂津を本拠として海洋貿易などで膨大な経済基盤を持つ渡来系豪族である。一族は政治・経済はもとより祭詞においても重要な地位を占めていた。ちなみに大嘗祭に奏上される吉志舞は、吉志一族に伝承されていた歌舞である。当社は朝廷から幣帛を受ける官社となったのはかなり早く、宝亀三年(772)の太政官符に天平勝宝七年(755)の官符が引かれており、武蔵国の班幣対象社四社の内に「横見郡高負比古乃社」とみえる。郡内の式内社は後に三社となるが、奈良時代に官社に預かったのは当社のみであった。これは重要な意味を有しており、律令国家が班幣制度により在地の祭祀権を保証することは、中央政府の地方行政権把握と結びついていたのである。官社列格には、在地の有力支配者と民衆の厚い信仰が背景になければ不可能であったから、奈良時代以前における武蔵国の中心的な役割を担う発達した勢力の存在を示している。こうした班幣社は、国家大事の際に神験が期待されたが、宝亀三年官符は、入間郡の正倉が火災に遭ったため、武蔵国内四社に奉幣したことを記している。このように、当地一帯は大化前代から中央との結びつきが強く、有力豪族が領しており、当社は殊に国家崇敬の重要な官社として、律令祭祀に組み入れられたのである。とあります。御祭神は、味耜高彦根神、大己貴尊。
高負彦根(たかおひこね)神社は、和銅3年(710年)創建と伝えられる古社です。隣にはポンポン山公園の広場があります。神社の裏にまわるとポンポン山の巨岩に登れるので、吉見丘陵を上から見渡せます。
創建は700年代と古く由緒ある神社だが宮司さんの常駐は無く御朱印などはもらえない裏手にはポンポン山と呼ばれる岩山があるまた右手には公園が整備されている鳥居左手には公衆トイレも設置されている駐車場は神社に向かう脇道の入り口にあるので神社付近まで来ると駐車スペースは無いので注意が必要特に観光地化されていないので人は少ないが参拝及びポンポン山からの景色は見る価値は十分にあるまた八丁湖からウオーキングで来るコースも整備されているのでそちらから周って来る人も多い。
割と小さなお社です。
立派な神社です。すぐ奥がポンポン山です。
神社の裏手に行ったら景色が良かった。ポンポン鳴らしたよ。
高負彦根神社 ぽんぽん山?ってなに?気になった貴方。ぜひお出かけください。ぽんぽん山で珈琲ブレイク。
髙負彦根神社は、比企郡吉見町田甲にある神社です。髙負彦根神社は、和銅3年(710)に創建し、平安時代の延長5年(927)に、作成された延喜式神名帳に記載されている社で、吉見町に鎮座する延喜式式内社3社のうち最も古い神社です。神社の裏には、玉鉾山(ポンポン山)があります。
ポンポン鳴るのは神社の奥の崖より手前の斜面です崖からの眺望もよく筑波山や赤城山が見えます崖の下には鳥居の右手奥の階段からの降りられます湧水もあります。
| 名前 |
高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ) |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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ポンポン山へ来たので寄ってみました。この神社びっくりです‼️答えはお賽銭を入れてみてください♪♪♪♬