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佐渡市千種の花塚は、順徳上皇と地元女性お花の悲恋を伝える伝承の地とされ、小さな塚と石碑が現在も残されている。新潟県佐渡市千種にある花塚(はなづか)は、鎌倉時代に佐渡へ流された順徳上皇と、地元の女性「お花」にまつわる伝承を今に伝える史跡である。史実として、承久の乱(1221年)で敗れた順徳上皇は25歳で佐渡へ配流され、以後22年余りをこの島で過ごしたとされる。その孤独な流人生活の中で、お花という美しい女性が上皇の心の慰めとなり、やがてこの地にまつわる切ない物語が語られるようになったという。伝承によれば、お花は佐渡千種の山中に暮らしていた女性で、当時としては珍しいほどの美貌の持ち主であったという。順徳上皇は熊野神社付近から山道を分け入ってしばしば彼女の屋敷を訪れ、心を通わせたとされる。しかしやがて、お花は病か悲嘆の末に亡くなり、人々は彼女を葬って小さな土塚を築き、「花塚」と名付けて供養したと伝えられる。この伝説は明治期に地元の旧相川奉行であり歌人でもあった鈴木重嶺によって顕彰され、明治8年(1875年)に熊野神社境内に「お花屋敷の碑」が、明治44年(1911年)には屋敷跡とされる山中に「花塚の碑」がそれぞれ建立された。現在も千種丙の集落内には、こうした石碑が静かにたたずんでおり、花塚では自然石に「花塚」と刻まれた碑が小さな塚の上に建っている。碑の周囲には案内板が設置され、順徳上皇とお花の物語が要約されている。この史跡が所在するのは、佐渡市千種丙の熊野神社から北へおよそ800メートル山道を登った場所で、地番で言えば千種丙97番地付近とされる。ただし、文化財としての指定は受けておらず、案内整備も最小限にとどまっている。塚は高さ数メートル程度、直径もそれほど大きくなく、上に乗せられた石碑は幅50センチ、高さ1.2メートルほどの花崗岩自然石である。周囲には生け垣がめぐらされ、ひっそりとした佇まいを保っている。この「お花屋敷」は、今も集落内で「本屋敷」と呼ばれ、お花がかつて住んでいた場所と伝えられている。また、近隣の「尾花崎(おばなざき)」という地名も、「お花が住んでいた崎」が訛ったものとされ、地域の地名そのものが伝承に根ざしている点も興味深い。なお、順徳上皇が実際にお花という女性と親しくしていた史実は確認されておらず、すべては後世の地域伝承に基づいている。とはいえ、順徳上皇と佐渡との結びつきは確かなものである。彼は佐渡滞在中に仏教や歌道に心を寄せ、『順徳院御集』という和歌集を残した。また、真野地区には宮内庁が管理する順徳天皇火葬塚(真野御陵)があり、佐渡における上皇の足跡は多岐にわたる。特に黒木御所跡(佐渡市泉)は、上皇が暮らした仮御所とされ、現在は佐渡市指定史跡となっている。花塚周辺では、伝承を基にした地域文化も根付いている。熊野神社の春祭(4月12日)では、尾花・本屋敷の集落による鬼太鼓が奉納されている。この鬼太鼓は佐渡市の重要無形民俗文化財に指定されており、地域の誇る伝統芸能のひとつとなっている。こうした祭礼や芸能の背景にも、順徳上皇とお花の物語が深く関わっていると考えられている。さらに、佐渡には上皇と女性にまつわる他の伝承地も点在する。たとえば金井地区の尾花崎にも「はな」という女性との逸話があり、ここにも「花塚」の石碑が建てられている。また、姫崎には龍王岩(龍宮岩)と呼ばれる奇岩があり、順徳上皇が海に落とした太刀を龍神が返したという伝承が残っている。こうした数々の伝説は、上皇が佐渡で多くの人々と接し、その足跡が地名や伝承に濃密に刻まれていることを物語っている。現在の花塚は、訪れる人も少なく静かな場所である。佐渡に数多くある順徳上皇ゆかりの地の中でも、特に人情味にあふれた伝説を残す場所として知られている。学術的には伝承の域を出ないが、地域の人々によって碑が守られ、故事が語り継がれている点に大きな価値があるといえる。石碑に刻まれた文字や立地、地名の名残など、物理的な痕跡の一つひとつが、遠い鎌倉時代の記憶を今に伝えている。花塚は、史実と伝承が交差する歴史の層のなかに、静かにその姿をとどめている。順徳上皇と佐渡、そしてお花という女性との物語を思いながら、現地を訪ね歩くことは、史跡が語る時間の深さと地域の記憶を体感する行為にほかならない。