都城歴史資料館への橋、思い出の始まり。
| 名前 |
岳下橋 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0986-38-0068 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP |
http://www.qsr.mlit.go.jp/miyazaki/bousai/top.html?gmn=grpWL1_S0I10 |
| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
都城歴史資料館に行く時に通る橋です。今は生活に溶け込んだ便利な橋ですが、由緒ある橋です。過去とは違いますが、今でも都城の物産をトレーラーで宮崎港に運び、フェリーで関西に運んでいるはしりがこの解説板には見られます。また、豊後の武士が都城に住み着いた事を知ったのは収穫でした。秀吉の九州征伐でほとんど抵抗を受けなかった事から南九州以外の武士(土豪・国人)は、やむなくや日和見で従ったのかと思ったのですが、旧薩摩藩領に住み着いた者もいたのですね。幕府の巡見使が薩摩藩領を見た時、外城や武士が多いことを問いただしていますが、龍伯を慕う九州各地の武士が集まったので、武士が多いのだ、と薩摩藩の家老が回答していますが、言い逃れではなく、具体的に住み着いた場所が一つ分かったのは収穫でありました。[竹之下大橋と西町の歴史]江戸時代には、都之城領内最大の大橋で、川は「竹之下川」と呼ばれていました。当寺は広い川原があり、兼喜神社の祭日には市が立ち、近郷近在からの人出でにぎわいました。寛政2年(1791年)には巨費を投じてここから宮崎の赤江港に至る約70キロメートルが開削され、以後は舟運がとみに盛んになり、大阪方面まで物産が輸送されました。西町は、三重町・後町から成り町の突き当り(東)には領主館があったため、道は現在の高架線下から北(松元馬場)へと折れていました。なお、三重町は、16世紀末に薩摩軍が豊後(大分県)へ攻め入った時協力した豊後南部地方の武士たちが住み着いた町と伝えられます。