菰野藩主土方家の墓、綺麗な碑巡り体験。
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| 名前 |
菰野藩始祖土方雄氏公の室(八重姫)・四世藩主土方豊義の室(艶)の墓碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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双方共、菰野藩主土方家の墓東に墓碑は建立されていて、墓碑、碑廻り等とても綺麗に維持。管理されています。隣接して菰野藩始祖土方雄氏(かつうじ)公遥拝所の石柱が建立されています。【院号】〇八重姫/玉雄院(ぎょくゆういん)寂厳順光大禅定尼〇艶/蘶光院(ぎこういん)節厳妙貞尼大姉※境内鐘楼門前、左手に「八重姫について」の説明板が建立されていましたので、引用しご紹介します。八重姫(一五八八~一六七九)は、一万二千石の菰野藩初代藩主、土方雄氏(ひじかたかつうじ)の正室であり、織田信長の孫にあたる。婚姻後、奈於(なお)と名乗った。幼少期から菰野藩で育てられ、藩の草創期の礎を築いた陰の功労者といえる。雄氏が京で穏棲し側室の子土方立圓氏久(ひじかたりゅうえんうじひさ)を跡継にしようとしたが、これをはねつけ、実子雄高(かつたか)を跡目とした。逆に雄高が早逝すると、その跡継として周囲の反対を押し切って、氏久の側室の子三男雄豊(かつとよ)を、第三代藩主に据えた、二人とも菰野藩の城下町の基礎を形作った有能な立役者といえ、八重姫の人を見る目の鋭さが偲ばれる。これ以降、菰野藩は改易や取り潰しもなく、質実剛健・質素倹約の気風を保ち、二七〇年間連綿として存続した。晩年は、木陰で休憩や授乳する農民のために、桜や楓の木を植え、高台で見守っていたという。生涯にわたり三代の藩主を見守り、藩の隆盛のために陰の力となって尽力し、領民に慕われた。晩年は当寺で座禅三昧の日々を送ったといわれる。当時としては異例の長寿で九二歳の天寿を全うした。院号は玉雄院(ぎょくゆういん)で歴代の藩主とともに、当寺の境内の東に眠る。八重姫の威光と恩顧息づく当寺では、そのご縁にあやかり、子供さん関係の祈願や供養、一般向けの長寿祈願や座禅会等行っている。令和五年五月吉日臨済宗妙心寺派 真如山 見性寺と、なっています。素晴らしいですね!