歴史を感じる糸屋町散策。
糸屋町 呂宋 住吉姫松社の特徴
高辻通沿いの繁昌神社の近くに位置する神社です。
フィリピン人によって祀られた糸屋町 呂宋 住吉姫松社です。
安土桃山時代以前に起源を持つ歴史あるスポットです。
フィリピン人が祀ったと伝承されている「糸屋町 呂宋 住吉姫松社」 ーーー歴史上の記録には残っていませんが…⚫︎1594(文禄3)年の「ルソンの壷」 で有名な「呂宋(ルソン)助左衛門」より前の時代である 「天正」(安土桃山時代1573年〜1592年)以前には、「山林九郎右衛門」と称する 呂宋(ルソン)貿易の『糸商人』が居住し、『糸屋の町』と呼ばれていたことで、江戸時代初期の1637(寛永4)年には「糸屋町(いとやちょう)」が存在していたとされています。(「角川日本地名大辞典」より)⚫︎その 呂宋(ルソン)貿易}}$$の『糸商人』と称する「山林九郎右衛門」が、呂宋(ルソン)から帰航した際に フィリピン人を連れてきたとのこと。そのフィリピンの貿易商人⁈ を、堺 の港から京都に連れて来て、この「糸屋の町」辺りに住まわせ、そのフィリピン人達が貿易の仕事をしながら、日本の風習に馴染むよう 自分達の神社 として、石碑を何処かから運んできて、この祠(ほこら)を造り 祀(まつ)られたとのこと。⚫︎京都の幾多の大火(1788年:天明(てんめい)の大火、1864年:元治(げんじ)の大火 等)を乗り越えて、現在 「仏光寺通」から入る この路地の奥の「繁昌町(はんじょうちょう)」の境目の場所に、今の形で存続してきている。⚫︎以前は、長屋(ながや)であった この路地の住人の方達が、管理されてきているとのこと…
| 名前 |
糸屋町 呂宋 住吉姫松社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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高辻通に面してある繁昌神社を西側に行った北側に建つマンション(カノン室町四条)の横、駐車場みたいな道を突き当りまで入った所に、黒っぽい大きな自然石の塚が「班女の塚」になります。この「班女の塚」のすぐ右後方に、鉄柵に囲まれて小さな覆屋があり、凝灰岩らしい碑に「住吉姫松」と刻まれています。この碑がある場所は、繁昌町域ではなく、「糸屋町」になる。「糸屋町 呂宋 住吉姫松社」をwedで調べるが個人で書かれて記事がヒットするがはっきりとしない。◇「糸屋町」の由来は、江戸時代初期、「山林九郎右衛門」という呂宋貿易(現:フィリピン)の糸商人が住んでいました。貿易で扱う糸の商売をしていたことから、この地は「糸屋の町」と呼ばれるようになりました。この町名は、早くも江戸時代初期の寛永14年(1637年)の洛中絵図にもすでに登場しています。「山林九郎右衛門」をwedで調べるがヒットしない。「糸屋町」の由来に名前が出てくるだけで、それ以上わからなかった。「山林九郎右衛門」に関連していたものになるのだろうか?◇刻まれている「住吉姫松」から調べてみる。「住吉」と言えば、「住吉神」のしるしとしての「松」が多くの歌に詠まれいます。「姫松」といえば、『伊勢物語』の117段「住吉御幸」の場面「我見ても 久しくなりぬ住吉の 岸の姫松幾世経ぬらむ」が知られている。松原通烏丸を西に行った所に「新玉津嶋神社」がある。江戸時代に描かれた絵図に『住吉松』と明記して松が描かれている。また、「新玉津嶋神社」の参道になる松原通の両側には松が植えられ松林となっていたそうです。『住吉松』に関連していたものになるのだろうか?結局「住吉姫松」の詳細は、わからなかった。2025年10月訪問。