山鹿温泉近くの歴史的真実。
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| 名前 |
西南之役薩軍野戦病院跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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西南之役薩軍野戦病院跡之碑は、山鹿温泉さくら湯の南東200mほどに伽藍を構える浄土宗の寺院である清鏡山長源寺の境内にあります。西郷隆盛率いる薩軍と、それを鎮圧するために南下してきた官軍が戦った日本史上最後の内乱、西南の役は1877(明治10)年2月19日、熊本城の炎上を横にその火蓋が切られました。山鹿は、もともと、交通の要衝で、岩野川に沿う街道(山鹿街道)が、北は、福岡、南は熊本に通じています。そのため、西へは、菊池川沿いの街道が南関に通じ、南関から北は久留米へ、南は瀬高に通じています。そのため、薩軍は、熊本城を落とし久留米に出るため、熊本から植木にで、北上して山鹿通り、西に進んで南関から久留米に至るか、植木から田原坂に向かい、菊池川を渡り西に向かい高瀬にで北上して南関を通り久留米に出るかの何れかの方法がありました。山鹿方面での戦闘も田原坂と同様に最前線に位置しておりし烈な戦闘が行われました。西南の役の主な戦場としては田原坂が有名ですが、その田原坂の戦闘と並行して山鹿でも2月26日から3月21日までの24日間、薩・官両軍の激しい攻防が繰り広げられていたことはあまり知られていません。陸軍少将三浦悟楼率いる官軍と勇将桐野利秋を擁す薩軍、熊本協同隊の平川惟一らが鍋田で初めて衝突した2月26日が山鹿口の戦いの幕開けでした。26日早朝、官軍はその軍勢を本・支隊二つに分け、陣をしいていた鍋田車坂から攻撃を開始。第一次戦は薩軍、熊本協同隊の圧勝に終わりました。3月3日、薩軍は第一次戦の大勝を足掛かりとして南関進出を図り、官軍が堅守していた車坂を突破し、長野原、腹切坂を征服。さらに、夕刻には下岩、中老、下津田に進み、長い戦いの未これを破り、坂楠、十丁まで進出します。しかし、翌3月4日、これまで優位に戦闘を進めてきた薩軍に不運な出来事が立こります。田原坂方面に行った偵察隊が長野原の薩軍本営に帰ってくるなり「田原坂大敗」と告げたのです。あわてた薩軍はただちに全軍を撤退させて山鹿に戻ります。かたや官軍は事情を飲み込めないままそれを追撃。盛り返して形勢を一気に逆転させます。山鹿に戻った薩軍を待っていたのは「田原坂大敗は誤報」という信しられない知らせでした。騎馬で伝令を送っていたことがこの誤報に関係するのかどうかはわかりませんが、いずれにせよこのために薩軍の南関占領は失敗、その後の戦局に大きな影響を与えました。兵力を増強した官軍の山鹿方面軍は本部を岩村の光行寺に置き、3月12日、山鹿進撃を開始します。その時すでに両軍の兵力は逆転し、官軍3900に対し、薩軍は田原坂に援軍を向けたために2500に減少。官軍の山鹿突破は時間の問題と誰もが思いました。しかし、薩軍の反撃はすさまじく、官軍本隊も容易には落とせません。官軍は平山から兵をおこして、城、城原方面、さらに一部は津留正円寺の陣を占拠し、鍋田東にまで進出。しかし、本隊の攻撃がはかばかしくないことを知るや、兵を平山に引き上げさせ、この日の作戦を反省し、次の戦闘の準備を整えていたのです。3月15日未明、鍋田の西に本隊を構える官軍は、鍋田東の丘陵に陣を張る薩軍に総攻撃をしかけます。これに対し薩軍も抜刀隊を組織して官軍にくらいつき、その陣地を奪回するといつたような一進一退の激しい攻防が繰り返されました。この日の戦闘は壮絶を極め、官・藩両軍だけの被害でほ収まらず、被らの放った砲弾や銃弾が古墳や墓石を削リ、放った火がたくさんの民家を燃やしてしまいました。その時に削られた砲弾跡が、今も錬肥隊奮戦の地として東鍋田の丘陵南部の墓地に残されており、この戦闘の激しさを物語っています。3月20日、降りしきる雨の中、ついに西南の役最大の戦地、田原坂が官軍の手に落ちました。それを受けて山鹿を死守していた薩軍も、熊本に侵攻しようとする官軍を食い止めるために撒退を始めます。山鹿の官軍は菊池川を渡り、岩倉、小原へと進み、薩軍を破って山鹿に進出しました。ここに山鹿口の戦闘に終止符が打たれます。山鹿は政府の統治するところとなり、後には24日間の激しい戦闘の生々しい傷跡だけが残って、山鹿の人々はその復興に努めなければなりませんでした。