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高島船着場は、高島橋(現在の高島橋から70mほど下流)付近にあり、石垣が築かれ、俵転の石畳が付設されていたといいます。村田や宮園、甲佐町から積み出された年貢米や物品も、しだいに高島に集まるようになりました。寛政2年(1790年)、高島船問屋の横暴を訴えた隈府商人の訴状には、「米を売却するために、輸送を高島村の船問屋に依頼してきたが、近年不都合が多く、宮園村の船主尉平に荷物の総支配を頼んだ。しかし、宮園村から川懸りがよくないため、高島村の林右衛門にその役目を命じて欲しいとの申し出があった」とあるので、大量の産品の積み出しには、水量が多い高島船着場がよく使われるようになったと考えられます。明治21年(1888年)に隈府菊池銀行の支店、米販売会社や倉庫2棟が建設され、商人たちが行き交い、料亭や宿屋も並び、大いに高島船着場はにぎわったといいます。米の積出しが衰退すると、木材積出し港の役割を果たすようになり、深葉山(阿蘇市)から材木が高島に運ばれてきたこと、2~10隻の筏が一団となって菊池川を下ったこと、大浜(玉名市大浜)まで通常は1日で到着するが水量が少ないときなどは3~4日かかったことなどが『菊池市史』に記されています。昭和10年代になると、菊池川水運を使った木材の運搬は、しだいにその座をトラックに奪われていきました。