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雉本博士はこの地に生まれ、明治から大正時代における法学のトップエリートでした。しかしこの銅像はその故に建立されたものではありません。雉本博士は鳴海の困窮した大勢の小作人達のために裁判で戦ったのです。当時はエリート層が小作人などの味方をして支配階級の地主達相手に戦うなどというのは異例なことでした。当然ながら国家や有力者から様々な非難や妨害を受け、雉本博士は46歳にして不審な死を迎えます。しかしその志は小作人に有利な和解という形で実を結びました。小作人達は博士の人徳を偲び、また感謝の気持ちを形にしたいと貧しいながらも浄財を集めて銅像を建立しようとしました。しかし当時の愛知県は、弱者の味方をして強者に歯向かった者の銅像などまかりならんと建立を禁じました。これに対し博士の教え子達も一丸となって働きかけた結果、やっと6年後にこの銅像を建立することができました。人々は戦中の金属供給圧力から銅像を守り続け、高度経済成長期の都市開発の波からも銅像を守り続けました。もうこの地に田畑は殆ど残っていませんし、農業も廃れましたが、今も博士の人徳を偲ぶ人々の手でこの銅像が守られています。