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| 名前 |
西条城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
|
福武山 西条城跡について西条城跡は、南北朝時代に使われた山城で、現在の福武山周辺にあったとされています。白い家の上あたりが城のあった場所です。当時は、•\t南朝(宮方)•\t北朝(武家方)の二つの勢力が対立しており、この地域でも激しい戦いが何度も起こりました。宮方の中心勢力は忽那(くつな)氏、武家方は河野氏です。忽那氏は河野城(現在の北条市付近)や和気浜方面で河野通盛と戦い、さらに越智郡の宮山城や西条方面でも戦闘を繰り返しました。記録によると、•\t1338年(延元3年)西条城は一度、宮方(忽那勢)によって攻め落とされました。•\tしかしその後、武家方は岩松頼有を大将として伊予に侵入し、同年9月ごろ、西条城を奪い返しています。このことは、鳥生貞実の軍忠状という史料からも確認できます。鳥生貞実はもともと宮方でしたが、のちに武家方につき、西条城攻めの功績を自ら記録しています。文中にある「郷」や「得重」は、現在の大町本郷や中野の得重周辺を指していると考えられています。⸻まとめると西条城は、•\t南朝・北朝の争いの最前線となり•\t何度も攻め落とされ、奪い返される•\t非常に重要な戦略拠点でした。そのため、福武山の西条城は南北朝時代の争乱を象徴する城跡といえます。