姫坂神社で心落ち着くひととき。
姫坂神社の特徴
満ち足りた静けさの中で心を癒やせます。
愛媛県神社誌に詳細な歴史が記されています。
市杵島姫命を祀る由緒ある神社です。
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落ち着きます。
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| 名前 |
姫坂神社 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
4.5 |
| 住所 |
|
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⛩️愛媛県神社誌(147p)三嶋神社の項より「配神 市杵島姫命の姫坂神社は、明治41年(1908)境内神社として合祀し、昭和21年(1946)元の社地へと奉遷したが、昭和44年(1969)再び当社に合祀した。」とあります。⛩️配神について配神とは、通常、神社では複数の神を祀っており、その中で主として祀られる神を主神や主祭神と言い、それ以外の神を配神(はいしん)と言います。こちらの三嶋神社では、主祭神は大山祇命で、姫坂神社の市杵島姫命が配神です。⛩️三嶋神社に合祀された理由を推測明治41年(1908)に境内神社として合祀とありますから、神社整理の頃かと思います。神社整理は、明治四年(1871)の布告により、一つの村に氏神社を一社だけ存置し、それ以外の神社の存置を認めない方針でした。それから明治末年から大正初期にかけて、神社合祀が積極的にすすめられ、愛媛県下の七割の神社が統廃合されています。そういった理由で前の場所から、三嶋神社に合祀されたのだと考えます。⛩️姫坂神社の旧地は?前の場所とは、古地図で「越智郡地図 地誌付」(推定1880年代)を見ると、歓喜寺さんから北に150M程の丘の上に墓地がありますが、あの辺りに姫坂神社が記されております。古地図に示された辺りに行ってみると、古くからある墓地の一画なんですよね。しかし墓地に神社。地面に礎石らしき痕跡はあるものの本当にここかと言う疑問は残ります。神仏習合時には姫坂明神とも言われてましたから仏教色が強かったのかな?墓地には馬頭観音の祠もありました。⛩️国府叢書より姫坂神社字(あざ)青木末社 姫坂神社祭神 「市杵嶋比賣命/多紀理毘賣命、多伎都比賣命」神殿 「壱尺五寸/弐尺」拝殿 弐間方社地 百八坪 官有地⛩️もう一つ近くにも姫坂神社?明治29年(1896)に書き写された国府叢書(巻51)を見ると、いつの時代かはっきりわかりませんが、字(あざ)青木と言うところに姫坂神社の記載がありまして、青木は今の聖神社とその上の丘にある町谷団地の辺りです。「越智郡地図 地誌付」で青木の範囲が記されています。青木にあった姫坂神社は、上記の墓地にあったと思われる姫坂神社からさらに240m程離れています。また聖神社は姫坂神社の境内社とも記されています。実際現地へ行ってみると、聖神社の社がありますが、境内地は狭いです。後で説明しますが姫坂神社の境内地は聖神社の上の丘の部分まで広がる広さだったのではないかと思います。青木はなぜか高市の飛地ですが、青木の土地の中に姫坂神社の社地があり、その広さは108坪と国府叢書には記されています。丁度学校などにある一般的な25mプールよりちょっと大きいくらいの面積ですね。あと聖神社の近くに小さな社があるのですが、神社名の記載なし。中には達磨が置かれたり、しめ縄に藁で編んだ草履が括られています。現在大きな姫坂神社と言えば北高近くの今治市宮下町にありますが、境内の青木神社には草履を奉納する風習が残っています。地名に残る青木や草履から青木神社が連想されますが、調べを進めるとそうとも言い切れない様です。というのも、現在の聖神社辺りと思われますが、高市方面からくる道がここで終わる事から、「道の末と呼んで塞ノ神を祀りその丘に姫坂神社がある」と「伊予史談」(171 昭和39年3月)にあります。こちらは国府の所在についてがメインの話で姫坂神社にまつわる話はこの部分だけでしたが、塞ノ神さんがある丘に姫坂神社があったというのは大きな手がかりです。また、古代学研究 (80)1976年出版には、「町谷遺跡の低丘陵は、市営住宅団地造成(1970〜)の為、その半分以上が削平されてしまった。平地と頂部の比高は約10m、丘陵の規模は東西130m、南北200mである。頂上部に姫坂神社があり、頂部からゆるやかに傾斜している。」とあります。こちらは、町谷遺跡についての記述ですが、丘陵の頂上部に姫坂神社があった事がわかります。削平された低丘陵地とは、現在三棟建っている市営住宅団地あたり(標高23m程)か、それとも2021年に解体された隣接地にあった二階建ての市営住宅群(跡地は公園が建てられる予定。標高16〜18m程)でしょうか。姫坂神社は、丘陵の頂上部にあったそうですから、団地が3棟建ってる辺りの標高が現在では一番高いので、団地が出来る前は、さらに高い場所があり、そちらに姫坂神社があったと思われます。青木にあった姫坂神社ですが、上記の記述から、聖神社横の小さな社がたぶん塞の神さんで、その上の丘に姫坂神社があったと思われます。しかし現在、丘の上には姫坂神社はなく、昭和44年の遷座は、もしかしたら市営住宅団地の造成の為、近くの三嶋神社内に遷座されたのかもしれませんね。団地の造成が始まったのは昭和45年からなので、その前に立ち退きしたのかも。塞の神さんと思われる小さな社の中に注連縄の草履がなんとなく北高近くの姫坂神社境内にある青木神社をイメージさせますが、昭和になって姫坂神社が遷座した為に、元の地の近くであるこの小さなこの御社に姫坂神社を懐かしんだ参拝者が姫坂神社にまつわるアイテムを奉納されたのでしょうか。この御社については、謎が多いです。しかし青木の丘陵地にあったと思われる姫坂神社と、古地図に記されている墓地あたりに記されている姫坂神社は、距離も相当に近いのですが、明らかに違う丘陵地なので、姫坂神社は近距離に二つあったんでしょうか。もう一つ何か情報が欲しい所です。役所の団地造営計画か、法務局のブルーマップかで機会があれば調べたいですね。⛩️石碑には現在の三嶋神社内の姫坂神社の石碑を確認すると昭和49年に石碑が建てられており、「姫坂神社奉遷 社殿修復」とあります。⛩️繰り返す遷座そして昭和21年に元の社地へ奉遷後、昭和44年に再び三嶋神社内に合祀されています。短期間で遷座を繰り返されており謎ですが、昭和20年は今治市街地に空襲もあった年ですし、日本が敗戦した年です。そして昭和21年は昭和南海大地震が起こっています。この時期にもしかしたら合祀されていた三嶋神社の社が被害にあった為、姫坂神社は、元の地へ奉遷されたのかも知れません。奉遷は、御神体を他の場所に移すことですから、元の地の姫坂神社の社は健在であったのかも。一度合祀した神社が再び元の場所に戻るには、それなりの理由があるはずです。三嶋神社の境内にある記念石を見ると、昭和35年に三嶋神社の本殿拝殿の修繕葺替記念と刻まれています。またこの年は1240年式年祭で多くの方から寄進があった事が境内の記念石から見てとれます。この事から、昭和21年頃に社はなんらかのダメージを受け、戦後貧しい頃ですから復旧にしばらくかかり、式年祭と言う名目で御寄進を募ったのではないでしょうか。通常式年祭は1200年祭とかキリのいい数字は見るのですが、1240年という風な区切りでやるのはやはりなんらかの理由があったのではないかと推測します。石碑を見ると昭和49年に三嶋神社境内に社殿が修復され、奉遷(神体などを他の場所に移すこと)されてますから、おそらく上記でも書いたように、姫坂神社のあった岡は町谷住宅団地の造成の為、昭和44年に三嶋神社境内に合祀されたのだと思います。そして石碑に修復という言葉が使われている事から、昭和44年から昭和49年までは、三嶋神社境内の姫坂神社の社殿はおそらく祀れる状態ではなかった為、神体は一旦三嶋神社の社に置かれ、昭和49年に姫坂神社の社殿が修復されたタイミングで御神体を移され現在に至るのではないかと思います。