歴史を感じる島津樋門。
| 名前 |
島津樋門跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
https://www.city.kagoshima-izumi.lg.jp/page/page_079991.html |
| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
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設置された看板より「島津樋門は、17世紀後半から19世紀中頃の幕末期にかけて薩摩藩が行った出水の干拓事業のひとつである荒崎干拓整備時に造られた干拓樋門(石垣)である。江内川の河口に築かれ、潮止用に石積みで造られた。工事は薩摩藩主島津斉彬が指示を出し、着工したのは次の藩主島津忠義の時で1860(万延元) 年~1866(慶応2)年にかけて工事が行われ、およそ198ヘクタール(東京ドーム43個分)の干拓地が開かれた。現存する樋門跡の石垣は2基で、右岸側は切石を8~10段に積み上げた布積みのものと一部野石乱積みのものが見られる。右岸側には布積みの石垣や急傾斜の階段が残るなど、樋門として機能していた当時の姿が残る。左岸側は布積みと谷積みのもの及び野石乱積みのものが見られる。地元の人の話では、左岸側の石垣には扉が残されていたが、1989年の台風水害で扉は流失したということである。両石垣の布積みの部分は当初のものと思われ、谷積み、乱積みの部分はその後の改修時等に積みなおしたものとみられる。また、右岸側石垣と東側南北袖石垣との間の河床には、護床工の遺構が現存する。大潮の干潮時に水が引くと露見される遺構である。護床工敷石の1か所に約16cm四方の正方形凹部(深さ1cm弱)が残る。石垣積みには巧みな技術を持つ天草の石工を参加させている。樋門の海側には東西約3.8kmにわたり石造潮受堤防が、一部の改変は見られるが当時の姿を残している。これらの干拓工事には前述した天草の石工のほか、市来·伊集院・串木野・長島・阿久根など藩内各地から石工や石切、水夫、船大工などの技術者を呼び、串木野・阿久根などから切石を調達するなど、薩摩藩としての一大工事の様相も伺える。荒崎干拓地完成により、昭和の西干拓・東干拓の開発に繋がり、この二つの干拓地がツルの渡来地となることとなった。2021年に、このツル渡来地は「出水ツルの越冬地」として国内53番目のラムサール条約湿地に登録され、2022年には、国内初のラムサール条約湿地自治体認証を受けた。」また、「土木學會選奨土木遺産 2023荒崎新地の石造干拓施設群」に認定されています。