鎌倉時代の五輪塔群がここに。
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| 名前 |
端谷五輪塔群 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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⛩️由緒現地の石碑によると、こちらの五輪塔群は、元々は、東側に隣接する丘陵地にあり、散乱していたものを地元の人たちが当地に下ろして積み直したもので、鎌倉時代から室町時代のものと考えられるそうです。かつてこのあたりには、大三島の大山祇神社の神職を務めた大祝家の屋敷があったとされ、この一族の墓と伝えられていて、地元では、「大祝さん」と呼ばれ大切に守られているとの事。⛩️東に隣接する丘陵地について今治藩領大絵図(1832)や越智郡地図(1880年頃)をみると、東側に隣接する丘陵地には御鉾社が祀られていました。この丘陵地は、大山祇神社の宮司であった三島敦雄氏の著書である天孫人種六千年史の研究によると『御鉾山』と呼ばれていた様です。また大山祇神社文書によるとこの『御鉾山』の北の隣接地辺りが、大祝家の先祖の鎮祭の場であったそうです。先祖供養する為の五輪塔群が丘陵地に散乱していたのも、この為だと考えられます。元々御鉾社は、大山祇神社の宮司職を務めた大祝氏の太祖を、屋敷の門前に守護神として祀ったものですが、越智氏(大祝氏)の邸内には現在も御鉾山を設けたり、宅地裏の小丘などへ祖神である御鉾神を祀っているといいますから、古来より大祝氏が住んでいた別名という土地柄を考えると、こちらにあった御鉾社と『御鉾山』がそもそものモデルになったのかも知れません。⛩️ 大祝家の屋敷はどの辺りにあったか?上記著書に字(あざ)堀ノ内にあったとの事なので、堀ノ内の字(あざ)を調べると、丘陵地から大体南東100メートルくらいの距離の所で、一辺がおおよそ100メートルの四角いエリアです。主に田んぼです。エリアの目印として赤い屋根の大きな建物(自動車の板金工場)があります。⛩️大祝家はいつまで住んでいたかいつからかは不明ですが古来よりこの別名の地に住んでおられたようです。近くの玉澄さんの大楠の所にある由緒書きの看板によると越智玉澄公は1300年前に別名に住んでおられたと書かれていますので西暦700年頃には既に一族は住まわれていて、天正(1573年〜1592)中頃に鳥生に移住した様です。(鳥生には大祝屋敷跡がありますが、現在は更地になって売地となっている)その後は、1675年に藩主の命により大三島へ移住しています。⛩️鉾(矛)について大三島の大山祇神社には、五世紀ごろの作と言われている鉄の矛が、ほぼ完全な形で神宝として祀られています。その為か、大山祇神社は、古来大山積御鉾大明神ともいわれていました。その矛が御霊代として、大山祇神の孫が宿っているとされている事から、御鉾大明神とも御鉾神とも天逆鉾とも考えられていたようです。大祝家が祖神として祭祀していたのが、そちらの御鉾神(御鉾大明神)です。また大山祇神社の社記によれば、三韓征伐のさい、祭司の越智大領守興は御鉾を先頭にして神領である霧力島(現在の広島県厳島)まで出陣したとされます。⛩️現在の御鉾社御鉾社は、明治42年に泰山寺裏手の三島神社境内に遷されました。⛩️ 大己貴(オオナムチ)社令和4年の別名端谷III遺跡調査では、この丘陵地奥(こちらの五輪塔群から北北西180Mくらい)から大己貴社の遺構と見られる場所も見つかっていますね。今治藩領大絵図(1832)には、この辺りを荒神と記しています。