防長の三孝女、岩淵のお石。
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| 名前 |
石川阿石の碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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岩淵のお石は、徳山のお米と笠戸島のお正とともに「防長の三孝女」と称されました。碑は、慶応元年(1865年)岩淵の上田源五郎が建立し、撰文は岩淵生まれの近藤芳樹によるものです。以下、近藤芳樹先生の撰文を私が勝手に現代語訳したものです。拙い訳で申し訳ないです。〝いし〟はこの里(岩淵)の女性です。家が貧しくて朝夕の煮炊きもできないことが多く、夫は生活のために出稼ぎに行って帰ってきません。〝いし〟は一人で足腰の弱った舅姑の世話をし、昼間は病気治癒の祈願のためにおんぶしてお寺に詣で、夜間は抱いてトイレに連れていったりしました。女にとってはたいへんな力仕事をしつつ、雨が漏りすきま風が入る部屋で機織りをして何年もがんばりました。その行動がお役所にも届き、税金を納めることを免除されご褒美をいただきました。〝いし〟は美しく苦労の多い生活をしながらもやつれていませんでした。とうとう夫にもうわさが伝わり他国から帰ってきて、夫婦で老いた両親の介護をしました。そうして両親が亡くなったあと、庶民としてはとても高尚な苗字をいただいて家に門を作りました。これは弘化3年(1846年)のことです。お隣の家に〝くま〟という女性がいました。〝いし〟の行いをまねて舅姑に仕えとてもよく働きました。〝いし〟を手本としたのは〝くま〟だけではありません。影響を受けた人は、東は岩国の山から西は豊浦の海まで、人の子や人の妻である女性はみんな〝いし〟をほめてまねをしようとしました。岩淵の 底さえ照りて しずく玉石とは言わじ あわれその玉。