幕末の歴史を感じる場所。
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| 名前 |
岩川関門跡(奇兵隊駐屯地) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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▼ ここには、幕末に「番所」が置かれました。通行人をチェックして、その姓名等を藩政府へ報告したところです。長州藩の殿様(毛利敬親)が萩城から山口中河原の御茶屋(交通交流公園のトコね)に移ってきたのが文久3(1863)年4月16日(「日記」「諸記録綴込11-7」)。「萩にいて、黒船に海上から攻撃されたらひとたまりもないやんか!」と、政庁を移したのです。ペリー来航(1853)の10年後のことでした。藩内に動揺を広げたくないので、表向きは「湯田温泉での湯治」としました。けれどもその実態は、県庁移転と同じですね。そこで、他国からスパイが侵入しないように見張らせたのです。山口は大内氏時代の城下町ですが、萩のように峠と河川で守られた要害の地ではありませんでした。▼ 番所設置の命令は、引っ越し1週間後の4月23日で、緊急課題だったことがわかります(「関門沙汰控」「諸記録綴込」)。ただし、このときに番所が設置された位置はもっと南で、中世以来の関所があったところ(関屋(せきや):河原公園近くの御大師堂があるところ)だったようです。なお、史料上では「宮野口番所」「宮野番所」「宮野村番所」「宮野中村番所」「宮野口屯所」(「忠正公伝」)など表記揺れが多く、呼称は一定していなかったようです。6月には関門海峡で米蘭英露の異国船を砲撃したため(馬関戦争)、外国からの報復攻撃にも備えました。▼ 元治元年4月に、番所は上記の関屋からここ岩川の地に北上して移されました。理由は、同月に一の坂ルートの萩往還が封鎖されたためです。その背景には、長州藩の内輪もめ(元治の内訌)がありました。萩往還は江戸時代を通じてのメインルートだったので、サブルートの石州街道は廃れていましたが、今度は八丁越えルートがメインとなり、通行人の数が爆発的に増えることが予想されます。そこで、ここの道路整備と番所建設を引き受けたのが徳万伊助です。もと七房村の庄屋で、当時は山口宰判下宇野令村の庄屋をつとめていました。藩庁から徳万への依頼状には「岩川御番所」と記されていて、「宮野番所」と呼び分けたようです(「徳万伊助辞令集」)。▼ 慶応元年1月22日から4月10日まで奇兵隊がここに駐留して、こんどは萩の幕府恭順派からの報復攻撃を警戒しました。なんか、どんどんチェック対象が広がっていくね。『奇兵隊日記』では「入野関門」「百合野関門」と記しています。こうして次第に軍事施設にシフトするようになると、呼称も「番所」から「関門」と変わっていったんですね。なお、関門は山口を囲む仁保(井開田)・防府(勝坂)・小郡(柳井田)・吉敷(大峠)・一の坂にも築かれていました。▼ 奇兵隊の転進後は、お相撲さんによって組織された「勇力隊」(ゆうりきたい)が、かなり長期にわたって駐留したようです。勇力隊は、慶応2年6月に始まる四境戦争にもここから出撃して芸州口(広島県との県境)で幕府軍と戦いました。このときに長州藩の公式文書で初めて「岩川関門」と記され、明治2年まで用いられました(「干城隊沙汰控」「諸記録綴込」)。▼ 位置は、慶応期に作成された「吉敷郡山口宰判図宮野村絵図」(袋入絵図175、文書館蔵)である程度わかります。けれども、肝心の施設構造や機能などについて記された史料はきわめて少なく、発掘調査もされていないのが現状です。(桑原邦彦「山口城の外郭、内陸側の防備について」山口県地方史学会『山口県地方史研究115』2016年、pp.40-42などを参考に記す。下の地図も転載)