金幣社狛犬と共に訪れる茜部の神社。
柳津天神神社の特徴
立派な金幣社狛犬が多く存在し、神社を彩っています。
家内安全御礼や七五三で、多世代が訪れる地域の拠り所です。
敷地面積の割に、じんまりとした雰囲気が心地よい神社です。
実家の掃除をしていたら、古い御札が出てきた(多分両親が残した)ので、いつもは国府宮神社まで返納しに行くのですが、1個だけだしガソリン代高騰の折りもったいないので近所の神社を検索したらここがヒットしました。平日昼間だからか参拝客もまばらでだけど神社特有の厳かな空気が感じられました。古い御札の回収箱もありましたので返納し、2箇所お宮があったのでお参りしました。地元の小さな神社ですがちゃんと人の手が隅々まで行き届いてる小綺麗な場所であることは見て取れました。世間で言うパワースポット的なチカラはおそらく無いと思いますがお参りするだけで何か気持ちが落ち着きます。
多くの社があり、立派な神社です。良い雰囲気でした。
近所で毎年元旦に家内安全御礼及び祈願に伺います。甘酒を振る舞って頂き色々準備して頂いた町内の担当者様に感謝!
近所の氏神様です子供達から孫まで誕生から、七五三など事あるごとにお詣りしています😊
奥村家の墓の近くで駐車場に使わして貰ってます。
天神神社(てんじんじんじゃ)は、岐阜県岐阜市柳津町(旧羽島郡柳津町)にある神社である。柳津天神神社ともいう。現在の天神神社は、穴太部神社、北天神神社、中天神神社を合祀した神社である。穴太部神社の創建時期ははっきりしていないが、6世紀、聖徳太子が創建した太子寺(現光沢寺)の鎮守として創建されたという。祭神は天穂日命。位置は現在の天神神社の南、約500m付近という。江戸時代は「阿加多天神」と称され、光沢寺の鎮守であったが、明治時代の神仏分離で独立する。北天神神社は、源頼実(源頼定の説もある)が製作した菅原道真像を、1557年(弘治3年)に源頼実の子孫が創建した神社であり、祭神は菅原道真。中天神神社は、創建時期は不明である。1945年(昭和20年)、穴太部神社と中天神神社が北天神神社に合祀され、1954年(昭和29年)に天神神社に改称される。
金幣社狛犬たくさん。
私個人誕生前よらアリマス130年以上確認尚…何回も建て直し増築工事完了。
何時も前に有る墓参りで駐車させてもらっています。お世話になります。
| 名前 |
柳津天神神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
058-387-4546 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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境川の北側にある茜部の長森縣神社から、境川を越えて南側、その昔は尾張葉栗だった柳津の地へ。そこで聖徳太子にまつわる伝承地を辿る。光澤寺は、6世紀に聖徳太子が創建した太子寺。その鎮守として、境内に穴太部(あなほべ)神社を創建したと。つまり、穴太部天神を祀る式内社の尾張国葉栗郡の穴太部神社のことだ。ここがその有力な論社として、祭神として古天神の天穂日を祀ってること、聖徳太子が由来となってることから極めて説得力がある。式内論社のもうひとつは、木曽川の下流へ南下した一宮の玉ノ井にある賀茂神社だ。地名に穴太部があるくらいで、こちらの由来は薄っぺらく祭神からも消えている。強いていえば、先に述べたように木曽川の流路変更により一時的に玉ノ井へ遷座していた時代があったかもしれないということだ。ではこの気になる名前、穴太部(あなほべ)とは何か。聖徳太子の母の名が、蘇我の血が入った穴穂部間人(あなほべのはしひと)なので、そういうことだろう。近江の高穴穂宮は、日本書紀には景行〜成務〜仲哀天皇の三代の皇居として伝わっているが、もっと遡った時代。聖徳太子と穴穂部間人の一族は、近江の大津穴太(あのう)に高穴穂宮をつくり、離宮として住んで居た可能性があるのだ。そこから、有名な近江の石工集団、穴太衆(あのうしゅう)が出ているが、そういうことだ。当時の聖徳太子が実際に美濃の柳津(当時は尾張の葉栗)に来たかどうか。ここは東山道だからその可用性はじゅうぶんにある。では、その目的は何であったのかだ。東国や美濃に蘇我氏や聖徳太子の荘園があることから母系のルーツがあると踏んでいる。以下、金幣社 天神神社由緒の石碑より祭神:古天神(天穂日命)菅原道真公由緒:元穴太部神社は光沢寺の前身である太子寺の鎮守として聖徳太子の頃創建されたと伝えられ、千年以上の昔から葉栗郡一五座の筆頭神社として崇拝されていた、江戸時代までは光沢寺の管理であったが、明治元年の神仏分離により総氏子の手に移った。元北天神社は清和天皇の皇子貞純親王の子孫源頼定が緒国武者修行に出てこの地に移り住み、加賀の武士戸田越後守に武道を教えたお礼として戸田家の什宝、沈水香木(白檀)を貰い受け、日頃厚く信仰須する学徳高い道真公の像六体を彫刻し、弘治3年(1557)2月25日六社を建立した内の一社である。元中天神の鎮座地は柳津村字中宮東であって尾張地名考によれば北天神と共に厚く崇敬された神社である。昭和20年7月5日 右三社を現在地に合祀し、昭和29年5月神社名を天神神社と改称した。