大磯シーサイドで味わう、絶品パンの旅。
| 名前 |
紀伊徳川茂承侯爵別邸跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
〒255-0004 神奈川県中郡大磯町東小磯255 0004 |
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レゾン・デ・パン大磯と大磯シーサイドヒルズ付近にあったとされる。紀伊徳川茂承(もちつぐ)公の別荘。相模湾が眼下にあり非常に最高のロケーションです。晴れた日は最強の贅沢を堪能出来そうです。・徳川茂承…天保15年(1844年)、紀州徳川家の支藩にあたる。伊予国(現在の愛媛県)西条藩3.3万石、松平頼学(よりさと)の六男として、青山百人町末(現在の渋谷区渋谷)にあった伊予西条藩上屋敷で生まれる。安政5年(1858年)紀州徳川家13代藩主徳川慶福が、江戸幕府第14代将軍徳川家茂として、征夷大将軍になると幕命により、当時松平頼久と名乗っていた茂承公は、紀州徳川家第14代藩主として、家督を継ぐ。安政6年(1859年)元服し茂承に改名する。文久2年(1862年)孝明天皇拝謁のため京都に上洛し、孝明天皇より天盃を賜る。徳川家第14代将軍徳川家茂が死去すると、徳川家第15代将軍に推挙する動きがあったものの、茂承公は固辞し一橋慶喜公を推す。幕末、第2次長州征伐の先鋒総督に命じられる。戊辰戦争時は病で療養していたが、幕府軍と新政府軍の鳥羽伏見の戦いで、幕府軍が大敗し紀州領内に大挙して逃げ込んで来たため、新政府軍の標的となる。しかし紀州徳川家に新政府軍に背く意思がないことを証明するため、藩士1500人、軍資金15万両を新政府軍に差し出したため、新政府軍は紀州領内を攻めることはなかった。明治2年(1869年)版籍奉還により和歌山藩知事、明治4年(1871年)廃藩置県により藩主は東京府に移り住むよう命令され、茂承公は東京へ移住する。明治6年(1873年)皇居(旧江戸城)西の丸付近で火災が発生し、紀州徳川家が所有する紀州藩中屋敷(現在の赤坂御用地)を皇室に献上したため、大いに感謝され金2万円を賜る。明治政府が打ち出した、徴兵令と俸禄処分が紀州藩士達のみならず、全ての士族乃生活を直撃、窮乏する。そのため茂承は「武士たるもの、新政府をあてにするな!生活は自力で自立しろ」と鼓舞し、自資産より10万円を捻出し徳義社という会社を設立する。また徳義中学校を建てて、窮乏する士族の育成にも尽力する。明治17年(1884年)華族令により侯爵。明治23年(1890年)に貴族院議員となる。しかし明治39年(1906年)麻疹、肺炎、尿毒症を併発し、心臓麻痺をおこし死去。63歳紀州徳川家の家督は田安慶頼の第6男、頼倫が継ぐ。アクセスJR東海道本線、湘南新宿ライン、上野東京ライン、大磯駅から徒歩7分。