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太良町史蹟 竹崎城趾竹崎城は、南北朝時代(一三七八年頃)に、足利氏の反逆に対して、南朝の懐成親玉に味方して島原の有馬泰隆が築城し、足利方(不ルぶ徴)の大軍を退けたといわれている。この地区は、国時代、有馬氏(島原)と龍道寺氏(肥前)両者の勢力の接点であったため、攻が繰り返された。この時代の末、龍造寺家情によって修築され、その後、龍造寺家(諫早家)の出城として重要な役割を果たして来たが、島原の乱(一六三七~三八年)の後取り壊されたと伝えられている。竹崎城の特徴は自然の地形を利用して、水陸両面に備えた山城と水城の性格を持つ築城様式であることや野回石、空家、曲の状況や大きさから、町内の大野城等の八つの城の中心的存在であったと考えられている。石垣の規模からみて、県内でわ名護屋城・唐津城、佐嘉城に比すべきものであると考えられている。なお、現在僅かに、東西五百メートル、南北六百メートルにわたる石垣の一部と、幅十メートル、深さ六メートル、長さ四十メートルの空療が一条残っているにすぎない。指定 昭和五十年二月四日。