品川弥二郎の魅力発見!
品川弥二郎誕生の地の特徴
品川弥二郎が松下村塾で教えを受けた歴史的な場所です。
安政の大獄を経験した品川弥二郎の足跡が感じられます。
高杉晋作と共に尊王攘夷運動に関与した貴重な史跡です。
品川弥二郎松下村塾に入門して松陰先生から教えを受け、安政の大獄にて松陰先生亡き後は高杉晋作らと行動を共にして、尊王攘夷運動に奔走。英国公使館焼き討ち等を実行している。禁門の変では八幡隊隊長として参戦し、後に太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。慶応元年(1865年)には木戸孝允と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍。明治維新後の明治3年(1870年)には渡欧して普仏戦争を視察。ドイツやイギリスに6年間留学する。内務大書記官、内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官等を歴任し、明治17年(1884年)には維新の功績により子爵を授けられる。明治24年(1891年)に第1次松方内閣の内務大臣に就任。明治33年(1900年)インフルエンザに罹り、肺炎を併発して死去。(享年58)松陰先生は品川弥二郎を「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評した。橋のたもと、小さな公園に小さな石碑が建っている。
| 名前 |
品川弥二郎誕生の地 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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品川弥二郎って、なんか魅力的な人ですね。錦の御旗の材料を山口に持ち帰ったり、日本初の軍歌の作曲をしたり(作詞は大村益次郎)。明治になってからは産業組合の設立にも尽力しました。新山口の農協の敷地内には「品川神社」がお祀りしてあります。この公園内にある「花月楼跡」の石碑について。花月楼は、安永5年(1776年)7代藩主 毛利重就公が三田尻(防府市)の別邸宅(現 英雲荘)に建築した茶室です。重就公の没後、茶人の竹田休和が貰い受けて平安古の自宅に移築しました。明治21年(1888年)品川弥二郎が、老朽化が進んでいた花月楼をここに移築し保存していました。昭和34年(1959年)松蔭神社境内にさらに移築され、現在も見ることができます。ちなみに、前記の「花月楼」とは別のもう一つの「花月楼」があります。その花月楼は、天明6年(1786年)周防国分寺境内に造られた茶室です。当時の国分寺住職と重就公が茶道を通じて昵懇だったので、「花月楼」と名付けられました。明治21年(1888年)三田尻御茶屋(現 英雲荘)に移築されました。品川弥二郎にもどります。弥二郎は「花月楼」のほかにも、藩主にまつわる「茶室」の保存をしています。江風山月楼の「花江茶亭」を指月公園に、山口藩庁内の「露山堂」を香山公園に、それぞれ移築しています。