奥豊後の歴史を感じる。
南山城址の特徴
大友家武士団の南郡衆南志賀家の拠点である歴史ある城跡です。
島津軍の侵攻による興味深い歴史が残されています。
県道638沿いの高台に位置し、案内板も完備されています。
県道638を産山方向に進み途中添ケ津留付近で奥豊後グリーンロードに入り進むと右側の高台に城址はある。南山城の案内は掲示してある。志賀義天公の築城とある。近県の神社を参拝すると通り道に山城・出城を見かけることがある。同じ島津藩との戦いの際の戸次合戦の鶴ケ城(城主は利光宗漁だが)に上ったが傾斜や土塁が厳しくこの城を落城させる合戦に従事する農民兵の体力に驚いたことがある。
かねてより興味を持っていた山城跡を訪れる機会を得ました。この城は、かつて大友家武士団の南郡衆、南志賀家が拠点とした山城だという歴史的な背景を知り、その地を踏みしめてみたいという衝動に駆られたのです。実際にその場所へ向かう道は、予想通り、現代の整備された道とは異なり、歴史の重みを感じさせるものでした。まず、城跡へと続く道を見つけるところから、すでに探検が始まっているようでした。道路脇に案内板が設置されていたので、それを目印に車を走らせましたが、そこから登っていく道のりの雰囲気が、日常とはかけ離れた空間へと誘ってくれるようでした。そして、目的地へと到着し、登山口を示すプレートを探したのですが、これがなかなか見つけにくいものでした。木に付けられた小さなプレートは、もう少しで見落としてしまいそうなほど控えめに設置されており、この史跡が、派手な観光地というよりも、本当に歴史を愛する人が静かに訪れる場所として守られているのだと感じました。この城の持つ歴史的な背景を考えると、その地に入った瞬間に、言い知れぬ感慨を覚えました。ここは、天正十四年に島津軍の侵攻で滅ぶまで、一時は北は福岡、西は熊本と広大な範囲を支配し、二十二万石以上という広大な領地を有していたとされる、強大な勢力の拠点であったというのです。その壮大な歴史に思いを馳せながら、眼前に広がる光景を眺めていると、当時の緊張感や、戦国時代の武士たちが抱いていたであろう野望や矜持のようなものが、微かに伝わってくるようでした。城の主要部分である主郭は、現在は平坦な杉林となっており、かつてここに堅固な城郭が築かれていたことを想像しながら歩きました。当時の建物や構造物は残っていませんが、この場所から志賀氏が広大な領地を見下ろし、戦略を練っていたのだろうと考えると、胸が高鳴ります。また、この城が島津の将、新納や梅北の攻撃を受けるという激しい戦いの舞台となった歴史を思うと、今、私が立っているこの静かな杉林の下で、壮絶なドラマが繰り広げられていたのだと、歴史の重みを実感いたしました。山城跡としての整備は、過剰な手を加えることなく、自然な形で維持されているように感じました。観光地然とした賑やかさはなく、市指定史跡として、静かにその歴史的価値を守り続けているという姿勢が感じられ、それが私には非常に好ましく思えました。派手に飾り立てるのではなく、志賀氏在城の地として、その歴史を静かに語りかけてくるような、落ち着いた雰囲気こそが、この場所の持つ真の魅力なのだと思います。歴史好きとしては、この山城跡を訪れることができ、非常に満足のいく体験となりました。かつての広大な支配領域を想像し、戦国時代の武士たちの息遣いを感じるような、静かで深い時間を過ごすことができました。この史跡が、これからも静かに、そして大切に守られていくことを願っています。
志賀氏在城、鑑隆は島津の将、新納、梅北の攻撃を受ける。主郭は平坦な杉林。
道路脇に案内板があり、そこを登っていくと右手に登山口のプレートがありました。プレートは木に付けてあり小さいので見落としてしまいそうです。この城は市指定史跡となっています。
天正十四年の島津軍の侵攻で滅ぶまで、北は福岡、西は熊本と広大な範囲を支配した、大友家武士団の南郡衆 南志賀家が拠点とした山城跡。広大な領地は22万石以上あったと言われる。
| 名前 |
南山城址 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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道沿いから看板を撮影別用で通ったので次は探索出来たらと思った😻