宿院頓宮の歴史を感じる石碑。
| 名前 |
旧宿院跡標柱 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
〒590-0954 大阪府堺市堺区大町東1丁2−26 音楽ビル 2F |
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宿院頓宮の石碑両大社頓宮とされていますが、頓宮の歴史には、大鳥社は後々に頓宮となったようです。そもそもは、住吉社は神功皇后の時代。鳳大社は古墳時代に創建されている。両社は、それぞれの国の 「一ノ宮」。大宝律令で、行政区域 国境(くにざかい)を決める際、両社の中間地点(4.47Km)のここに頓宮を設けたのではと思います。頓宮は神社の勢力範囲かもしれません。それを国境にするのも、一案です。国境は、変わるもので、大小路筋(江戸時代)、大和川(明治時代)と移動しました。国境は力関係で絶えず動くもの。和泉名所絵図(江戸時代の観光案内)に、宿院が描かれていますが、その中に向泉寺(現・榎元町公園)も画がかれています。その意味は何でしょうか。向泉寺(現・榎元町公園)と両社との距離を測ると、これも中間地点。堺区向陵中町3丁8の向泉寺境内跡も中間地点。向泉寺は奈良時代に行基が建立しました。国境の設定を迫られた 時の権力者が、公平に決めたのでしょう。しかし、町は北へ発展してゆき、利権など絡み、国境も北に移動したのでしょう。役目を終えた向泉寺は、市之町東に(コンクリート碑)移っています。初期の国境は宿院から向泉寺。 向泉寺から北へ・方違社の三国の辻。長尾街道を東へ そして難波大道を北へと想像しました。小さな石碑のロマンを語りました。諸説ありとしても、中間地点の距離があまりにも正確ですね。皆さんの見解は、如何でしょうか。