大津茂川の大きなお地蔵様。
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| 名前 |
一軒家地蔵尊 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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大津茂川と網干川の合流地点にお堂があり、かなり大きめのお地蔵様が鎮座しています。近くには「當一軒家地藏尊縁起」で始まる説明看板がありますが、かなり読みにくいので、現代語訳してみました。ちなみにこの地蔵を建てた肥塚九兵衛は、酉高(とりたか:この地蔵が建っている字名)を開発しようとしましたが、龍野藩、丸亀藩、林田藩、安志藩の管理下にあるこの近隣16か村の反対にあいました。そこで九兵衛は大坂奉行所に提訴して認められ、独力でこのあたりを開拓したそうです。以下説明看板の現代語訳です。『この一軒家地藏尊の由来地元民や出入りする船舶が崇敬し信仰し、神仏の力が光り輝くこの地蔵は、梶山城主和泉守七代の直裔(じきえい:直接の子孫)豪族 肥塚九兵衛が、徳川幕府の允許(いんきょ:許可のこと)を得て肥塚新田(酉高の南の字名)及び流作(ながれさく:酉高の西あたりの字名)、酉高の地を開拓することとなり、その子 加志が土地の地鎮と海陸交通安全、地域の発展、水難者の追悼のために地蔵尊を奉伺するように発心し、その尊像の彫刻を明石の名工・六兵衛に依頼した。六兵衛は斎戒沐浴(神仏に祈る前や神聖な儀式に参加する前に、飲食や行動を慎み、体を洗い清めて心身を清浄にすること)をして祈願すること三七(みなぬか)日の満願になり(注:願掛け21日とか21日参りなどという)、その夜、薫香があたりに漂い、霧が朦朧と立ち込めた中から、衆生済度(しゅじょうさいど:仏や菩薩などが、この世で迷っている衆生を苦しみから救い出して、悟りの世界へ導くこと)する地蔵尊がありありと出現し、「六兵衛。六兵衛。」と名前を呼んで姿を消した。六兵衛は仏心の有難さに感涙し、全精力を注いで仏像を彫り上げた。また明石よりこの地へ仏像を搬送する際は、どこからともなく船頭が現れて船に積んで運んだという殊勝なことであった。その仏心を伝え聞いた当時の乙訓(おとくに)郡粟生(現在の京都府長岡京市粟生)にある西山浄土宗の総本山・光明寺の管長 哲空隆賢が西国巡礼の途中で肥塚家にお立ち寄りになり、この地蔵尊の開眼をされた。この時元治元 (1864) 年3月であった。このような由緒ある大仏も年月が経ち堂宇は朽ちて壊れ、尊像が露出してしまったのを悲しみ、新在家の三好政吉がこの地蔵堂を再建した。 政吉は幼少の頃、目の病に罹り両目を失明しかかったとき、一心に仏に祈念したところ、不思議なことに難病も薄紙を剥がすように快癒した。この仏様の力を心からありがたく思い、日夜信仰報恩のために地蔵堂の再建を志したが、仲仕(港の荷物の積み下ろしの業務)の仕事をしておりけっしてお金持ちではなかったので、日々少しずつお金を貯めたり東奔西走したりして多くの人々に協力を依頼し、ついに昭和5(1930)年12月、堂宇を再建し初志貫徹した。再建にあたり政吉の母親および新在家の行者 井手はな など多くの協力を得た。偶然にもこの堂宇を再建した時を同じくして興浜で護摩供養をしていた時に、突然この延命地蔵大菩薩が出現し、「私は入船出船見立ての地蔵である。海上で難航の際は私を念じなさい。すぐさま救出するでしょう」とおっしゃった。海の原 舟子安かれと 守るなり出船入船 見立ての地蔵肥塚純夫 謹んで記す』※「見立てる」には和歌などでは「見送る」という意味があります。