松江城の壮大な景観、青芝を堪能。
松江城 外曲輪跡 (二之丸下ノ段跡)の特徴
松江城の壮大な石垣が視界に広がり、歴史を感じる場所です。
二之丸下ノ段跡は、江戸時代の米蔵や屋敷があった地域です。
整備が行き届いた青芝が、この史跡の魅力を引き立てています。
この二之丸下の段一帯は、江戸時代に米蔵や屋敷などのあったところである。米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていたが、洪水や飢きんが、しばしば発生するようになったので、米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようになった。城郭図によれば、築城時(十七世紀)にはL字型に建つ二棟の米蔵と門や塀が存するだけであった。延宝七年(一六七九)には、越後騒動により配流された高田藩の忠臣荻田本繁(主馬)とその子民部、久米之助のためにこの地の一角に「荻田配所」が建造された。さらに十八世紀以降になると「荻田稲荷社」をはじの米蔵が新たに五棟も新造されたが、この内三棟は天保年間に建てられたものである。やがて明治維新となり不要となった建造物群は明治八年に至り天守閣を除いてことごとく取り壊されてしまった。その後、一帯は運動場となり明治三十三年には島根一中と鳥取中により両県初の野球試合が行なわれたり、諸種の建物、施設も出来て文化やスポーツの場にも使われたりした。松江市では、昭和四十七年度から三次にわたり米蔵を中心に発堀調査を実施した結果、今見るような石積基壇の遺構が発見され、ほぼ縄張図や城郭図どおりの規模であったことが確認された。昭和五十一年三月松江市教育委員会と説明板にありました。
この季節に青芝を維持しているのは、相当整備をしっかりされていると思います。
本丸、天守の東側の曲輪で馬溜りと共に外曲輪となる。かってはこの曲輪に藩の米蔵があり、藩士の扶持米やはり飢饉等での緊急米を蓄えていた。明治維新後は建築物は取り壊され、文化.スポーツなど公の広場として活用されていた。近年になり松江城再現の風潮が高まり、米倉等の基礎など発掘された。説明板もあり、広い空間のこの曲輪からの天守・本丸方面の石垣とは美しく観える。
| 名前 |
松江城 外曲輪跡 (二之丸下ノ段跡) |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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視界に広がる石垣が松江城の壮大なスケールを感じさせます。ここは是非行くべきスポットだと思います。