武田24将の歴史、ここにあり!
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| 名前 |
設楽原古戦場いろはかるた「ち」 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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治水にも つくせし昌胤(まさたね) ここに死す原昌胤は武田24将の1人で、父の代から武田家に仕えています。いわゆる武田4天王と比べると知名度は今ひとつですが、信玄公から厚い信頼を受けていました。「甲陽軍鑑」によると、信玄公は毎年末に限られた家臣だけを集めて会議を開き、翌年の国の方針を決定していたそうです。秘匿性の高い会議だったらしく、参加者は信玄公の他に山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、春日虎綱、原昌胤、書記として小山田信茂だけだったとのことです。また、西上野国の武田領国化に伴い、跡部勝資と共に「取次」に任命されています。取次はその地域の国衆が武田氏に上申する際の窓口みたいな役割で、地域をまとめることもあったようです。軍事面では、合戦の際に陣形や軍の配置場所を決める陣場奉行を務めました。その特性を活かして道の整備などの土木関係にも力を発揮し、あの「信玄堤」の建設にも関わったそうです。長篠合戦では山県昌景と共に左翼を担当しますが、撤退戦の途中で討死しました。