勝利の杯が誘う長篠城の魅力。
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| 名前 |
設楽原古戦場いろはかるた「ま」 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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守りぬく 城主の貞昌 二十一長篠城を守り抜いた奥平信昌を織田信長公が賞賛し、勝利の杯と信長の「信」の1字を与えた場所と言われています。奥平氏は山家三方衆を構成する国衆で、長篠合戦時は奥平信昌が長篠城の城主を務めていました。当初は徳川氏についていましたが、元亀3年(1572年)の武田信玄公の侵攻で武田氏に従属。しかし信玄公の死去後は家中が分裂し、祖父らを残し貞能・信昌父子は再び徳川氏につくことになります。天正3年(1575年)の長篠合戦において、奥平信昌は少ない兵で長篠城を最後まで守り抜き、織田・徳川連合軍の勝利に大きく貢献します。しかし「譜牒余録」によると、長篠合戦の日の夜に長篠城を訪れ奥平信昌を賞賛したのは織田信忠(信長公の嫡男)と徳川家康公だとあります。その他の複数の史料でも、信長公自身は使者を派遣して褒め称えたとあり、合戦直後に信長公が直接面会をして賞賛した可能性は低いように思われます。また、奥平信昌の名前についても、長篠合戦の戦功から「信」の1字を信長公から与えられ貞昌から信昌に改名した、とする説がありますが、現在ではそれは後世の改竄だとする説が有力のようです。武田氏に従属していた時代に信昌と記名された文書が残っており、信の字は恐らく武田氏から与えられた偏諱であろうとのことです。武田が滅び、後に徳川の世になった時に、都合に合わせて事実が改竄されたと考えられるそうです。