独特な空気感の真野御陵。
真野御陵(順徳天皇火葬塚)の特徴
承久の乱で敗れた順徳天皇の火葬塚があります。
昔は観光名所で賑わった場所ですが、現在は静寂な雰囲気です。
海を見下ろす高台に位置し、厳かな景色が魅力的です。
真野御陵(まのごりょう)は順徳天皇の火葬塚で、承久の乱後に佐渡へ配流された天皇の最期を伝える貴重な史跡である。辞世とされる歌や黒木御所の伝承が残り、阿仏房や皇子女の縁地とつながる。真野御陵は新潟県佐渡市真野にある。正式には順徳天皇火葬塚と呼ばれ、鎌倉時代の仁治3年(1242年)に順徳天皇が佐渡で崩御した際に火葬が行われた跡とされる。宮内庁管理下にあり、周囲を玉垣と石灯籠で囲まれた静かな塚が残る。初めに植えられた松と桜は失われたが、明治以降も地元に大切に守られてきた。鎌倉幕府と朝廷が衝突した承久の乱(1221年)で敗れた順徳天皇は、父の後鳥羽上皇とともに流された。後鳥羽は隠岐へ、順徳は佐渡へ配され、都に戻ることなく22年間を島で過ごした。配所は泉地区に営まれた仮の御所で、黒木御所と呼ばれる。そこでは仏像を祀り、和歌や学問に没頭したとされる。上皇は『禁秘抄』を著し、和歌論『八雲御抄』をまとめるなど学問的業績を残した。仁治3年9月12日、順徳天皇は佐渡で崩御した。翌日、真野で火葬が営まれ、その跡地が御陵となった。辞世と伝わる「思いきや 雲の上をばよそに見て 真野の入江に朽ち果てむとは」の一首は、帝位から遠ざかり島で果てる無念を示す歌として広く知られる。火葬の翌年、遺骨は京都に送られ、大原陵に葬られたと記録されるが、佐渡の塚も御陵として島民に守られた。江戸時代には佐渡奉行が修復を行い、宝暦地震で被害を受けながらも保存が続いた。明治以降は国の管理下に置かれ、現在は宮内庁が監督している。佐渡には順徳天皇をめぐる伝承が多い。黒木御所の四隅に仏を祀ったと伝え、島民の献じた稗の粥を賞した「稗粥物語」もある。恋ヶ浦には父を思う歌碑が建ち、遠く隠岐を望んだ心情を今に伝える。忠臣の阿仏房は御陵近くに庵を結び、のちに日蓮に帰依したとされ、夫妻の墓と伝わる五輪塔が残る。順徳の子や孫に関わる伝承もあり、二宮神社では忠子女王を祀り、慶宮寺は慶子女王ゆかりとされ、西三川の法名院塚には皇子彦成王の墓との伝説がある。ただしこれらは伝承であり、経塚説など異説も併記される。真野御陵に隣接する真野宮は、もと真輪寺といい、明治期に順徳を祀る神社に改められた。境内には遺品と伝わる硯や短刀などが伝来し、上皇を慰霊する祭祀が続いている。黒木御所跡や真野宮、皇子女ゆかりの神社などが一帯に点在し、佐渡に残る鎌倉時代の文化を示している。真野御陵は、承久の乱の敗者となった天皇の最期を刻む地であり、島の人々により守られてきた歴史の証人である。辞世とされる歌や稗粥の物語は悲運と人情を伝え、阿仏房や皇子女の足跡も島に痕跡を残す。ここを訪れると、鎌倉時代の動乱と遠島の地で果てた帝の姿が静かに浮かび上がる。
お盆休みの最終日朝に訪問。パワースポットですね!近隣の一般の家が御陵の入り口と間違えますので注意!!
宮内庁の職員の方が墓守として常駐しているのは、新潟県内ではここだけとのこと。また、皇室も参拝されるという意味では、大変貴重な場所となります。流石に、厳かな雰囲気となっております。佐渡に来たら、佐渡金銀山というイメージですが、ゴールドパークの近くでもあるので、ぜひ立ち寄ってみてください。手前のお土産屋さんには、佐渡にしかない赤玉も販売されていますし、そこでの口コミにも書きましたが、女性店員さん達がとても気さくに話かけてくれますので、ぜひ行ってみてください。この御陵から見える佐渡の風景もまた素晴らしいです。おススメです。
2024年11月2日に約15年振りに参拝しました。「鎌倉の13人」放送後、もう一度考えてみようと思い立ってから、随分と時が流れてしまいました。後鳥羽上皇の足跡をたどるために隠岐を旅した記憶も自分の中で風化しかけて来ています。後鳥羽上皇は、一番目の皇子である土御門天皇に譲位して院政を敷きました。その後、三番目の皇子であった順徳天皇に位を譲らせます。鎌倉幕府では、源頼朝の血筋が途絶え、摂関家から4代目将軍を迎えますが、執権の北条氏が実権を握る状況となりました。天皇家の血筋ではない人物に国土を分割統治させることは、許されないということだったのでしょうか。東北地方に跋扈した安倍氏や奥州藤原氏と同様に、許し難い存在と認識されたのかと考え直しています。承久の乱(承久3年1221年)で後鳥羽上皇は、2代執権北条義時追討の院宣を発しました。尼将軍北条政子は、弟の義時のもと御家人の支持をまとめ、義時の息子の泰時に幕府軍を率いらせて上皇軍を撃破させました。上皇軍の敗北によって、関東・東北の地方政権に過ぎなかった鎌倉幕府は、西国の上皇側の荘園を手中に収め、全国政権にのし上がります。結果、父である後鳥羽上皇は、隠岐に流され、兄の土御門上皇は、土佐・阿波に流され、弟の順徳上皇は、佐渡に配流となりました。順徳上皇の皇子であった仲恭天皇は、鎌倉幕府によって天皇の座から降ろされ、後堀河天皇が即位しました。後堀河天皇は、幼い四条天皇に譲位し、院政を敷きます。しかし、時を経ずして後堀河上皇は崩御してしまい、幼帝を支えるために朝廷は、見た目は摂関政治の体制となりました。朝廷を監視する六波羅探題の傀儡と化したといえます。四条天皇は、わずか12歳で崩御されました。次の88代目の天皇に誰を立てるか鎌倉幕府から圧力がかかったと思われます。世にいう仁治三年の政変です。順徳上皇の皇子である忠成王は、排除されました。代わって土御門上皇の皇子であった後嵯峨天皇が即位するのです。順徳上皇は、さぞや鎌倉幕府を恨んだことでしょう。絶食して仁治3年1242年に崩御されたと考えておられる方も多いと思われます。この場所で火葬されたと伝わっています。遺骨は、京都市左京区の大原陵に埋葬されました。大原陵は、父である後鳥羽院の御陵です。佐渡院と称されていましたが、建長元年1249年に順徳院と諡号されました。22年間、京都の御所を思い浮かべながら、過ごされておられたのでしょうか。小倉百人一首の最後の和歌「百敷や古き軒端のしのぶにも なほあまりある昔なりけり」の作者としてご存知の方も多いと思います。ちなみに九十九番目は、後鳥羽院の和歌です。
柵の外から拝見するだけなので、時間・興味の無い方はわざわざ寄るほどではないと思います。でもまわりの田園風景や遠くの山なみが美しく、こんなところで暮らしていたんだなとイメージすることができました。
承久の乱の計画に父の後鳥羽上皇よりも積極的だった順徳上皇が火葬された場所と伝わります。遺骨は京に運ばれ埋葬されたので御陵自体は京都の大原にあり、ここは正式な御陵(みささぎ)ではありません。元から佐渡は流刑地の1つではあっても、前例ない貴人が配流されてきて当時の佐渡の人々がどう感じたか。京への帰還が不可能と悟ったあと上皇は何を思って過ごしたのか。21年間の佐渡暮らし、いろいろと想像は膨らみますね。土産物屋が少しあって御陵が遠くから見れるだけの場所です。私はそれでも歴史好きなら行く価値あるかなと思います。
順徳天皇火葬塚とのこと夕方近くで雨空でそれでいて近くまで行けなくて「こんな感じなんや」となりますが、静寂した不思議なところです。
海を見下ろす高台にあります。手入れの行き届いた厳かな雰囲気で、800年以上前からこの地で大切に守り続けられてきたことには感慨を覚えます。隠れた名所と言えるでしょう。
昔は観光名所で観光バスの頻繁に往き来してました。今は少ないようです。土産店は今でも営業しています。静寂で落ち着ける処です。宮内庁が管理しています。
| 名前 |
真野御陵(順徳天皇火葬塚) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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独特な空気感のある場所。宮内庁管理下の神聖な場所らしく、御陵内には入れず門をくぐって即終了。日本の歴史、佐渡ヶ島にまつわる歴史など興味がある方は是非。