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書にて「地蔵堂」をしらべてみます__________❸【参考 城山町史 6 1997年】過去帳の記録によると、このお寺はこれまでに二度の火災に見舞われたため、「古い時代のことはよくわからない」とされています。天保元年(1830年)に本堂が再建された際、当時の住職であったと思われる契三(けいぞう)という人物がその旨を記しています。火災が起きたのは文政年間のことと考えられますが、過去帳にはそれ以前の記録も残されており、当時の様子を知ることができます。主な内容は以下の通りです。・寛延3年(1750年)・・本尊の前に置く「護摩壇(ごまだん)」を建立しました。(住職・亮歓の時代。大工は小松村の半右衛門と佐太郎)・宝暦10年(1760年)・・弘法大師像の彩色(塗り直し)を行いました。(住職・宥義の時代。願主は本江郷の藤左衛門と弥次右衛門)・宝暦12年(1762年)・・半鐘(はんしょう)を造りました。(住職・宥義の時代。願主は本郷村の弥次右衛門と藤左衛門)・安永6年(1777年)・・寺の敷地内に「天満天神宮(てんまんてんじんぐう)」を建立しました。(住職・憲如の時代。大工はこの地域の八木佐太郎)・文政4年(1821年)・・弘法大師像を彩色しました。(住職・芳龍の時代。像の内部に記された文章による)・天保元年(1830年)・・本堂を再建しました。(地元の小野又七が発起人となり、住職・契三がこれを書き残しました)・安政5年(1858年)・・幕を1張奉納しました。(住職・弁雅の時代。施主は本郷の小池清助)また、宝泉寺が所有していた「地蔵堂」が、かつて原宿市(はらじゅくいち)が開かれていた場所(現在の原宿自治会館の付近)に建てられていました。建物の大きさは、間口が約5.4メートル(三間)、奥行きが約7.2メートル(四間)ほどの広さでした。さらに、そのお堂に付随して、周囲には幅約72メートル(四十間)・奥行き約18メートル(十間)におよぶ広い森と、約900平方メートル(九畝歩)の畑も広がっていました。現在、お堂自体は取り壊されて残っていませんが、本尊であった「地蔵菩薩像」は、今も原宿自治会館の中に大切に安置されているということです。__________❶【参考 新編相模風土記稿 1841年】地蔵堂宝泉寺持 とあります。ー・-・-・-・-・❷【参考 新編相模風土記稿 1841年】原宿 (下川尻村冒頭にある)「原宿」と呼ばれている場所は、村の東の端に位置し、一つのまとまった区域をなしています。そこには民家が向かい合って44軒も軒(のき)を連ねています。古くから「市(いち)」が立てられており、米やさまざまな品物が売り買いされてきました。近隣の「久保沢(くぼさわ)」の市と交代するような形で、毎月「7」のつく日(7日・17日・27日)を定例の開催日として市が開かれ、大変な賑わいを見せています。(久保沢は毎月「2」のつく日)相模川より西側(津久井郡内)の村々の中で、この原宿や久保沢のように発展している場所は他にはありません。その様子は、西側の山あいの村に見られる静かな風習とは、まったく異なっています。