高天神城の守将の墓碑で歴史に触れる。
本間八郎三郎氏清と丸尾修理亮義清の墓碑の特徴
武田勝頼との戦いに関連する深い歴史を感じられます。
高天神城の二の丸に位置する貴重な史跡です。
本間八郎三郎氏清が祀られた歴史的な墓碑です。
武田勝頼との戦いで討ち死にした本間八郎三郎氏清と、丸尾修理亮義清兄弟の墓です。江戸時代に子孫の本間惣兵衛によって建立されました。「戦死の跡」の標柱があります。
武田方に攻められた時に二の丸を守り討ち死にした守将の墓碑がひっそりと残されています。
袖曲輪の下段にある。天正2(1574)年武田勝頼に攻められたときの徳川の二の丸の主将、本間八郎三郎氏清とその弟丸尾修理亮義清の墓碑だ。この向かい側には、天正2年戦死者の碑もある。《2023.2.1訪問》
徳川家康支配下にあり、小笠原長忠が城主であった頃の高天神城にあって高天神城二の丸の守将であった本間八郎三郎氏清が祀られている墓碑。その隣には本間八郎三郎氏清の弟丸尾修理亮義清が同じく祀られている。高天神城といえば四方を断崖絶壁に囲まれた難攻不落の城という印象があるが、徳川家康時代の高天神城は二の丸側だけが城の斜度が緩やかで、その部分だけが城の弱点とも言うべき場所であった。第一次高天神城の戦いにおいて武田勝頼率いる武田軍はその弱点をつき、武田二十四将の一人穴山梅雪が二の丸方面から城を攻めた。本間八郎三郎氏清は守将として必死で指揮を執るも武田軍の銃弾を頸部に受けて戦死、その代わりに指揮を執った氏清の弟丸尾修理亮義清も同じく銃弾を胸部に受けて戦死した。 兄弟については本間の末裔本間惣兵衛が江戸時代(元文年間)に墓碑を建立している。
| 名前 |
本間八郎三郎氏清と丸尾修理亮義清の墓碑 |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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難攻不落で武田信玄ですら落とすことが出来なかった高天神城において武田勝頼に代替わりした際、西峰から攻め入り落城させ勝頼は名声を高めた。その時の徳川方の二の丸守備にあたり討死したのが兄弟であるこのお二方。ご子孫の方々により祀られている。