新羅系渡来人の歴史、辛科神社。
辛科神社の特徴
種を持ち帰り植林したという伝説がある神社です。
大陸からの渡来人によって創建された歴史ある神社です。
独特な狛犬が印象的な境内が魅力の神社です。
多胡郡総鎮守 辛科(からしな)神社です。辛は韓に通じ、大陸からの渡来人が創建したと由緒書には記述が有ります。随神門の中には独特の雰囲気を持つ狛犬が鎮座しています。また、群馬三碑の一つ、多胡碑のレプリカも本殿脇に有りました。車は神社と社務所の間に道路(神社の境内地)に通行量も多くなくて、数台停められそうです。御朱印は直書きを頂きました(300円)。
鎮守様ということで、お詣りさせて頂きました。とても静かな所でした。御朱印も直書きして頂きました。有難うございました。
右手でハンドルを、左手にスマホを握り、丘陵地の中の細道をあつちへ行ったりこっちへ来たり、人家まばらな、片田舎でやっと石鳥居が目に入る。御神木はケヤキの大木。見所のひとつの狛犬を穴の空くほど見て、多胡碑のレプリカなどを眺めて、社殿の裏の鬱蒼と杉が繁る広い鎮守の森に踏み込んだら、目を剥くようなケヤキの大木が何本も聳えていた。
701~703に大陸から渡来した人々によって創建されたと伝えられている神社で、 上野国神名帳に従二位とある歴史のある神社です多胡の古碑のレプリカがありました。
山里にある、村の鎮守様ってこんなのをいうのでしょうか?お天気も良くて社務所の所は陽当り最高のポカポカ陽気でした。欲をいうと、彫刻など塗り直したほうが良いのでは?駐車場は、特に有りませんが、出来るスペースが何台か有ります。
隋神門にある独特の狛犬が印象的でした。御朱印は社務所で直書き受領出来ました。駐車場はありませんが境内や道に止められます。
辛科神社 (カラシナ)創建は大宝年間(701~703年)に新羅系渡来人によって勧請されたのが始まりと伝えられています。辛科(カラシナ)の神号は、甘楽郡から分割された韓級(カラシナ)郡に由来。敷地内に『上毛かるた』の「む」の札「昔を語る 多胡の古碑」のレプリカが御座います。この地は古代、「甘良郡」に属していたとされ、「多胡碑」によれば和銅4年(711)に片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から300戸を分けて多胡郡が成立。辛科神社は多胡郡の総鎮守社として利用されたと思われます。鳥居をくぐり、右手に手水舎。参道を進み、階段を上り随神門。(金属製の狛犬が安置)随神門をくぐると、社殿のある境内。正面に拝殿(入母屋造り)。拝殿後方に流造の本殿。境内左手に神楽殿。社殿の右手に多胡碑のレプリカと境内社です。
知る人ぞ知る群馬の神社です!
多胡郡の総鎮守。多胡碑のレプリカ、境内社もあります。御朱印は社務所で頂きました。¥300
| 名前 |
辛科神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
027-387-3623 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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辛科神社(からしなじんじゃ)。群馬県高崎市吉井町神保。社名は古代の「韓級郷」に関連するとみられる古社であり、渡来系氏族の祀ったものと考えられている。所在地の「神保」は辛科神社の神領であったことに由来すると考えられており、『吾妻鏡』25、承久3年(1221年)6月14日条に見える「神保与三」は「多胡宗内」と並んで記述されていることから、神保氏はこの地を苗字の地としたとみられている。旧郷社。多胡郡総鎮守。主祭神:須佐之男命、五十猛命。資料によると、社伝によると、大宝年間(701~)、朝鮮半島の新羅系渡来人によって創祀された神社で、『上野国神名帳』に「従二位 辛科明神」とある古社。よって祭神は新羅系と考えられる須佐之男命と御子神の五十猛命。和銅四年(711)三月、片岡郡、緑野郡、甘楽郡のいくつかの里を分割して新たに多胡郡を設置した際、多胡郡総鎮守として崇敬されてきたといい、辛科(カラシナ)の神号は、甘楽郡から分割された韓級(カラシナ)郡に由来する。鎮座地名、および社家の神保は、「神領」の意味だろうか。多胡郡が出来た記念碑が吉井町に残る多胡碑。碑文に刻まれた、多胡郡を給わった「羊」は、「羊太夫」と呼ばれた当地の豪族のこと。和銅年間に武蔵国秩父で銅を発見して富み栄えたという。また、八束脛という手足の長い従者を使って空を飛び、驚くほどの速さで大和へ通っていたとも。ある日、八束脛が昼寝をしていた時に、羊太夫が悪戯して、八束脛の脇の下の黒い羽のようなものを抜いてしまい、大和へ通えなくなってしまったために、羊太夫は謀反の疑いをかけられて、都から派遣された軍に滅ぼされたという。この時、八束脛は金の蝶に化して月夜野の石尊山の洞窟へ逃れ、その遺跡に八束脛神社が祀られている。安中市に羊太夫を祀ったと思われる羊神社があるが、現在の祭神は、天兒屋根命となっている。とあります。参考として、八束脛(やつかはぎ)」とは、古代、中央政府に服従しなかった土着の人々を、中央から蔑視して呼んだ言葉です。また、八束脛は、土蜘蛛や国栖などと同様に、大和王権に服従しない土豪たちの別称としても用いられました。\ufeff八束脛神社(やつかはぎじんじゃ)は、群馬県みなかみ町にある神社です。石尊山の中腹に位置し、弥生時代中期の遺跡でもあります。円泉寺によると、かつてこの洞窟には脛の長さが八束(約8握り分)もある巨人が住んでいたという伝説があり、その巨人を祀るために建てられたと伝えられています。多胡郡の建郡以前にこの地を開拓したのも百済系渡来人だった。吉井町に鎮座する「辛科(からしな)神社」(旧名「韓級」)の社伝によれば、同社が創建された702年を前後する当時、この地は「百済の庄」と称されていたとある。660年に滅びた百済からは大集団が渡日しており、『日本書紀』は666年の条で百済人男女2000余人を東国に移住させたと記している。いずれにせよ、多胡郡地域が韓半島からの渡来人と濃厚な関係にあったことは明らかだ。以上、多胡碑との関連(羊太夫と八束脛)、和銅年間に武蔵国秩父で銅を発見して富み栄えたという事など、ここ豊城入彦命の上毛野の国に渡来し、多胡群を任された朝鮮系の一族の関係など深掘りせずにはいられません。