歴史が息づく碓氷関所。
碓氷関所の特徴
碓氷関所跡は1623年に設置された歴史的な場所です。
ボランティアが関所の門の歴史を詳しく説明してくれます。
アプトの道から徒歩でのアクセスが便利な静かな史跡です。
門の柱や扉などは当時の建材が奇跡的に残っており、それを使って復元されています。こじんまりとした資料室があり、訪れた際は担当者の方に関所の役割や歴史を説明いただきました。ありがとうございました。
2017.12.03(日曜日)ポツンと佇む関所跡その歴史は古く、899年に関所が設けられ、現在の地には1615年に移ったとのこと。入鉄砲に出女 を取り締まる重要な役目を担っていた。…入鉄砲? 出女?そうです。江戸に入ってくる鉄砲と、諸大名の妻女が江戸から逃亡するのを見張っていたんですね。
明治時代に時の政府より撤去命令が出されましたが、忍びないと思った地元の偉人がこっそり部材を残していたそうです。柱の上部に焦げ跡が残っているのは破却のため燃やした後だそうです。
横川駅から歩いて7〜8分の場所にある碓氷関所は、東海道の箱根の関所、中山道の福島の関所に並ぶ関所だったようです。駐車場は横川駅側に2箇所有ります。
昔の番所跡に当時の東門の材料で建てた関所跡資料館もあるが朝だったので閉まってたいつ開いてるかは不明。
古くは平安時代に遡る碓氷関所です。僦馬の党(しゅうばのとう)という強盗対策のため、碓日の坂(碓氷峠)、足柄の坂(足柄峠)に設置されたのが起源と言われています。位置も上信越自動車道の五料SAのある台地上と言われており、関長という地名が残されていました。東山道はやがて中山道としてルートの変更を経て江戸時代に移り変わり、関東に至る街道にはほとんどで関所が設置されており、監視体制が敷かれるようになります。群馬の西方だけでも碓氷だけでなく、西牧、大戸、大笹等があり、県内では14か所設置されていたそうです。全国の総数は時期や規模にもよりますが、江戸時代には53か所ほどあったと言われているので約4分の1に当たる計算になります。明治に撤廃されるまで存続し、西門(幕府)、東門(安中藩)で管理者が異なるなど、関所の維持は細かく决められていたそうです。
碓氷関所は1623年、江戸幕府によって設置されました。中山道は特に重要な交通路であったため、関東出入国の関門として、幕府は「入鉄砲と出女」を厳しく監視しました。東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守っていました。その東門が昭和35年、関所跡に復元され、隣接地に関所史料館も建てられました。また、平成30年から関所跡の南にある「麻苧茶屋」内に展示室がオープンし、関所および近世交通に関する史料を展示しています。毎年5月、安政遠足(侍マラソン)の開催日には関所周辺で「碓氷関所まつり」が行われ、獅子舞や八木節などの郷土芸能が披露されます。坂本宿方面から鉄道文化村方面に 途中 関所跡の案内があり行って見ました。駐車場あり 少し狭いです。跡地は門があるだけですが旧街道の史跡が好きな方にはオススメ👍 この辺りは近くに滝があったり 廃線沿いに歩けたり 散策にはすごくいい場所だと思います。散策後はいい温泉も多々あります オススメ👍
2024.12現在の門は復元されたものです。往時の規模がどれほどのものだったか地図が掲示されていたりすれば分かりやすいのになと思いました。【概要】碓氷関所は1623年、江戸幕府によって設置されました。中山道は特に重要な交通路であったため、関東出入国の関門として、幕府は「入鉄砲と出女」を厳しく監視しました。東西に門があり、西を幕府が、東を安中藩が守っていました。その東門が昭和35年、関所跡に復元され、隣接地に関所史料館も建てられました。また、平成30年から関所跡の南にある「麻苧茶屋」内に展示室がオープンし、関所および近世交通に関する史料を展示しています。
アプトの道、スタート地点。醍醐天皇の昌泰二年(八九九年)に群盗を取締る ために、関所が碓氷坂に設けられたそうです。少し手前(駅側)に小さな駐車場があります。
| 名前 |
碓氷関所 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
027-382-7622 |
| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
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「碓氷関所において関所破りで処罰された者の数はかの有名な箱根関所よりも多いと言われています。」関所そのものは平安時代初期の899年に当時の天皇陛下である醍醐天皇(だいごてんのう 885~930)の命令により築かれたのがはじまり、時代は飛んで戦国時代末期の1590年に関東を治める事になった徳川家康(とくがわ いえやす 1543~1616)の命令により整備されたモノです。碓氷関所は江戸(東京)の日本橋から京都の三条大橋までの約534km(135里22町)を結ぶ街道「中山道(なかせんどう)」を通る際に避けては通れない場所であります。1603年に家康公により江戸幕府が開かれると幕府は各大名たちの妻子を江戸に住まわせ人質にして幕府に逆らわせないようにしました…そういった家族たちが大名の治める領地へ逃げ出してしまわないようにこの関所で「検査」が行われ特に江戸から出る女性に関しては厳しく取り締まりました、また各大名たちには「参勤交代」という1年おきに大名の領地と江戸を常住させるという制度がありその度に大名は家臣らを引き連れ刀や火縄銃といった武具を納めた箱を持ち長い行列をつくりながら移動するいわば「大名行列」にてこの関所はその大名たちが持っている火縄銃をここで預かり保管し大名が領地へ帰る際に返還するという役目を担っていました。街道を行く一般人の旅人らには「通行手形」と呼ばれるいわば「身分証明書」を検札し問題なければ通行できるというシステムでした。(通行料の徴収はありませんでした。)当時の関所では「朝六つ(午前6時頃)に開門し、夕六つ(午後6時頃)に閉門」というルールが定められており、江戸方面の「東門」は幕府の信頼がある譜代大名が治める「安中(あんなか)藩」が担当し京都方面の「西門」は江戸幕府が直接管理していました。江戸時代において約246年にもわたる碓氷関所の記録では10人(関所の案内ガイドの方のお話では20人以上ではないか?とも言われています。)もの「関所破り」が捕まっておりいずれも重刑が処されてます。これは箱根関所の5人よりも多い数です。明治維新後の1869年2月2日に碓氷関所は廃止され関所に関する建物はすべて取り壊され関所の門も解体され燃やされることになりましたが、かつてこの関所で勤務していた安中藩藩士の後閑円蔵(ごかん えんぞう)氏により「東門門扉」と「門柱」を回収し保存していました、1960年になって当時の「碓氷関所」が復元されるにあたり今まで保管されていた関所の門が再建されました。(門をよく観察すると門柱が黒く焦げているのが判ります、これは門柱が火にくべられた際に後閑氏があわてて水をかけて消し回収したというエピソードがあるそうです。)関所の見学は無料、すぐ近くに無料の駐車場があります。併設する「資料館」には碓氷関所に関する様々な資料が展示・保管されています。