最澄が残した壮麗な歴史。
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| 名前 |
史跡 元円興寺 仁王門跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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《解説看板》史跡元円興寺跡延暦九年(七九〇)三月、伝教大使最澄が東国教化の途中この地に立ち寄られ、山頂附近一帯に壮麗な七堂伽藍を配した円興寺(本尊・木造聖観音立像)を創建されたと伝えられる。当時は坊舎が立ち並び、末寺百余ヶ寺を有したと伝え、山麓一帯は多数の仏徒の往来もあり、繁栄したものと思われる。天正二年(一五七四)織田信長の兵火にかかり、七堂伽藍は全焼したが、慶長元年(一五九六)田之堂(現在地朝長ルート裏参道の付近)に本堂と五坊とが再建された。しかし、承応元年(一六五二)雷火によって再び焼失した際に、この地はもともと湿地帯であったので、万治元年(一六五八)現在の円興寺がこの山の麓西に建立された。松尾芭蕉の俳句《解説看板》円興寺と俳人松尾芭蕉(みののくに朝長の墓にて)芭蕉苔埋む 蔦のうつつの 念佛哉俳聖(俳句をつくる名人)といわれた松尾芭蕉は美濃(今の岐阜県)によく来て俳句をつくりました.記録によりますと貞享元禄のころ大垣に四回ほど来ており、「谷木因」という友だつやたくさんの弟子ができたということです。この円興寺の朝長の墓にお参りした時に、一句を作っていることが「芭蕉翁顕彰会」(芭蕉のことをくわしく調べる会)でわかったので大垣市青少年憩いの森遊歩道の整備にあわせてこの句碑がたてられました。大垣市立青墓小学校。