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奥津喬治郎翁頌德碑(印)奥津喬治郎翁は明治七年七月二十九日奥津家十代の長男として生れ厳格なる家庭に成育す。明治の中頃中田村は農地の不作連続に疲弊し、人々は中田寺に会して退去の議を凝す時に住耺(じゅうしょく)香川法隆師一喝して曰くこれ仏の試練なり先祖の地を捨てて耻づるなきかと、十九才の氏は發奮し、然り死を賭けて蹶起(けっき)せんと之に同調する者漸く多く初めて中田農会を設立し地質研究の結果過燐酸石灰の施用に依りて土壤改善を計る時に廿二才なり此新發見に依る増収に全村歓喜に満つ。然も夙(つと)に産業經済の發展は精神の健持を本とするとし仲田青年教会を中田寺に開設して会長となり念仏し礼誦(らいじゅ)し法話を聞き經済計画を討議し貯蓄の必要を論ずまた御賽銭貯金を為す等、村の經済漸く立直るを見る、明治四十一年産業組合法制度の時恰(あたか)も浄土宗祖法然上人七百年を迎ふるに依り記念事業として無限責任中田信用組合を創立、三十五才にして組合長理事となる。大正十二年関東大震災に罹災せる御靈神社、中田寺、全村復興のため組合は適切なる非常措置を取る。昭和六年組合は事業を拡大して發展を遂げ十四年待望久しき組合事務所成る、その正面に仏像を安置するは信仰を第一とする組合長の信念を表示するものなり。十六年大東亜戰勃發するや銃後の守りに餘念なく、十九年命に依りて中和田農業会成り会長として難局に當り謝に(?)戰後の食糧難と共に旧軍用地松下問題には最も辛苦を甞(な)め、二十年旧軍用地周辺の耕作許可を受け更に旧桑原部隊の払下には死力を盡して陳情し奮闘中、偶(たまたま)十一月高島町駅にて奇禍に遭ひしも不屈の努力を積み対決の危機を協調に転じ遂に二十一年その大部分を耕作する許可を得て奏功の喜び盡きざるを語る。然るに病漸く重く町民の熱誠なる平癒祈願の甲斐なく國立病院に不帰の客となる、時に二十二年二月六日享壽七十四才なり信岳院喬譽慈覚救郷念生居士と号す。生前曽(かつ)て大正十三年緑綬功勞章、昭和十七年紅綬功勞章等数々の表彰及び感謝状を受く。越えて二十四年旧軍用地の払下を受け農家の安定確立するを得たり。中田町民□翁の生前の多大なる功績を讃え精靈永く地元を照護せんことを希(こいねが)ふ所以なり。今その三十回忌に丁(あた)り此碑を建てて輝ける偉業を子孫に伝えんとす。翁は里人を思ふ一念に徹し經済と信仰の不離を信念とし常に数珠を手に念仏して事に當られたる意志の生活はよく時勢の苦難を克服して地上の幸福と繁栄を實現したるものにして正に人生の爾(し)かあるべき様を身を以て示されたるものさすべく、その偉業は永遠に朽ちざるものなり。大本山光明寺第百八世大僧正文学博士徹譽大野法道撰文并書(印)(法道之印)碑文が2箇所、印が2箇所判読できません。職は耺、事は亊、闘は閗など略字が多いです。