佐倉道の歴史を感じる。
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| 名前 |
市川船橋戦争 海神の戦い跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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現在はJR線が佐倉道を分断し橋が架っているため当時の面影はありません。南方からの行徳道はそのまま北の東海神駅方面へ続き(これもJRが分断してしまい、地下道経由)、それが古代は船橋駅北側まで入り込んだ夏見入江を迂回する古道だったという説があります。今は南方の念仏堂に移設されましたがこの交差点に佐倉道と行徳道の分岐点であったことを記す道標がありました。さて、市川船橋戦争は1868に戊辰戦争の局地戦として起こりました。そのうちここ海神の戦いはその最終局面の戦いとなります。八幡方面から佐倉道を撤退してきた幕府軍(撤兵隊)と、行徳道から進軍してきた新政府軍(福岡藩兵)がこの辺りで衝突し、銃撃戦となりました。その際に幕府軍のリーダー江原素六は被弾し負傷しましたが近所(山野町)の町民に匿われたと言います。この海神の戦いにおいて海神・西海神の両村にて町民が4名、撤兵隊20名、新政府軍12名が命を落としました。当時旧幕府側は明治政府からすれば賊軍であり、その死者の埋葬や墓を建てることを禁じたと言います。街道整備や御菜浦などの恩恵があったため船橋の人間は江戸幕府への忠義心が強かったのかもしれません。2023.8.27追記&写真掲載かつては三叉路のおもちゃの自販機あたりにあった道標を撮りに念仏堂へ訪問しました。