大久保卿の歴史と共に。
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| 名前 |
大久保卿牧羊場選定の碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
2.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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大久保卿牧羊場選定の碑明治政府の殖産興業は、欧米列強にも劣らぬ国家を築くための重要政策の一環であった。多岐に渡る殖産興業の内、富国強兵の号令の許、軍隊の近代化によって、軍服や軍需品に適した、強靭で保温力が高く、撥水性に優れた羊毛(ウール)の需要がにわかに高まってきた。諸事情(当初輸入に頼るが、国際情勢による禁輸の対策としての内製化等)によって羊毛の自給自足を模索する政府は、官吏による牧羊場の適地調査を行っていたが、同行していた内務卿(明治7年、大蔵省勧農寮から内務省勧業寮に移管)大久保利通の鶴の一声によって、当地に決定された。江戸時代の野馬放牧地として江戸幕府に管理されていた当地には、馬の侵入を防いだり、囲い込むために築かれた土手が残されており、内務卿はその土手に駆け上がって「ここが適地である。」との『利通の一声』を宣ったという逸話が残された。ここにも、旧幕府の遺業ともなる野馬土手を、倒幕派薩摩藩出身の大久保卿が踏みつけるという、歴史の皮肉とも、時代の必然とも思える光景が現れたのだった。踏み台になった土手は、元々此処より北西約850mにあったというが、現在は残っていない。更にそこより北北西360mの両国地区に、富里牧羊場碑がある。御雇外国人アップジョーンズ(ジョーンズといえば、宇宙人を思い出す)を迎え、内務卿大久保卿(卿といえば、SWのダースベイダーを思い出す)の主導によって開発された羊の楽園のその後は、大久保卿の暗◯、アップジョーンズの退職、牧羊の経験不足、気候風土の不適、寄生虫対策の不備等の要因によって、必ずしも楽園とはならなかった様だ。やがて牧羊事業は、北海道や更には外地満州朝鮮に舞台を移して隆盛を極めることになる。